浜野浦の棚田に賭けて

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浜野浦の棚田に賭けて
 パリジェンヌに紹介したい日本の風景遺産を追っかけている。
 ゴールデン・ウイークをまえにいよいよ棚田の撮影チャンスがやってきた。 田んぼに水が入り、田植えが始まる前が棚田の映像化にとって一番素晴らしいチャンスとなる。 1999年、日本の棚田100選がリストアップされたように、この国には無数の棚田がある。
 信州にも更科紀行に描かれた姥捨の棚田がある。貧しかったこの辺りの農民が、年老いた姥を背に棄てに行ったという伝承のある姥捨の地の棚田である。 芭蕉は田毎に映った月を前に詠んだ。 
  ”おもかげや 姥ひとり泣く 月の友”
 芭蕉が姥捨を通りかかったのは、元禄元年8月15日の名月の夜ということになっているが、その頃では稲も茂り田毎の月は見れない。
 田毎の月は田植え前か、まだ稲の幼いうちしか 見ることのできない風景なのだ。
 さて沢山の棚田のなかで、どこが風景として優れているか、やっぱり海に沈む夕日と棚田にとどめをさす。 とすると東日本は不可能である。北陸にも色々な棚田はあるが夕陽がない。海に沈む夕日の照らし出す棚田といえば、西の玄界灘とか、東シナ海に面した棚田が望ましい。
 フォトジェニックな棚田をおっかけて、佐賀・浜野浦の棚田にたどり着いた。 耕して天にいたる浜野浦には283枚の田があり、正面に玄界灘、そこに沈む夕日が一枚一枚の田を染めた情景を思いながら準備に追われている。
 太陽が浦野浜の正面に沈むのは四月一日から十日位のあいだ、その上、雲も雨もいらない。祈るような気持ちでゴールデン・ウイークの真ん中に賭けた。
 真っ赤に焼けた玄界灘の空と、水面の美しい棚田を想って、残り一席のANAを予約した。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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