決断力のなかった浅田真央

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決断力のなかった浅田真央
 浅田真央がやっと引退した。
 新聞もテレビも大騒ぎしているが、スポーツを芸能化した真央の実績についてはあまり賛成できない。
「嬉しさが50パーセント、悔しさが50パーセントのメダル」といったバンクーバー五輪のあと引退していれば、彼女の分析力と決断に脱帽したが、そのあとを見れば、いかに自分自身のスケートが判っていなかったかが明らかだ。
 彼女と競って金メダルをとった韓国の金研児をみれば、彼女との差は明らかなのだが、残念ながら浅田真央にはその理解力がなかった。飛んで回ればそれで良しとするテクニック信仰から最後まで抜け出すことができなかった。飛ぶ前のプレパレーションの長さが、いつも表現を殺し決断力のない彼女の内面を現していた。
 フィギュア・スケートの醍醐味は、技術をベースに音楽を背景にした総合表現につきるのだが、決定的な劇的解釈、表現においていつも劣っていた。
 無責任な観客は可愛い可愛いで花を投げるが、世界の大人たちの眼はごまかすことはできない。
 ヨーロツパでもアメリカでも、さらに高等なテクニックを要し、成人の感性を刺激するペア・スケーティングや、アイスダンスが人気の種目だが、幼児性の強い日本の観衆は、フィギュア女子 それも名古屋をバックにしたあまり趣味がイイとは言いがたい衣裳と末端のテクニツクに拍手を贈る。
 2014年の現役続行か引退かの瀬戸際でも、「いまのところハーフハーフ」と煮えきらない態度で決断力のなさを露呈した。休養中も30本近いテレビ・コマーシャルでかせぎ、バラエティ番組のレポーターをしてみたりと、もはやスポーツマンではなく、芸能人に落ちていた。
 荒川静香のオリンピック金メダル後の身の処し方と比べれば、誰の眼にも荒川の決断力の素晴らしさがわかる。
 ソチ五輪から今日までの4年ちかい歳月は、浅田真央自身の価値をさげ、スポーツマンらしい爽やかさのない
時間をつくりだした。
 口にこそださないが、後輩たちは「やっと席があいた」とほっとしていることだろう。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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