半世紀前、六本木で働いていた仲間が集まった。
歳をとると誰でも群れて、思い出話や病気のはなしがしたくなるものだが、この集まりは少し異なる。編成、制作、撮影、技術、営業、宣伝、出版、アナウンスなど、テレビ放映の現場を横断した社内異業種交流といっ趣である。揺籃期の民放テレビの現場で、それぞれのポジションで仕事をしてきた仲間なので、思い出はあまりセンチメンタルに流れない。冷静な振り返りと、現実への批評や認識が話題の中心をしめた。
まずNHKが芝愛宕山にテレビ塔を建てた。愛宕山には技術研究所のスタジオがあったので自然の成り行きだった。 麹町の野原に日本テレビがテレビ塔を作った。塔の足元に二つのスタジオと庭園のある社長室と制作センターができた。花街を見下ろす赤坂の山の上には、引揚者の簡易住宅が軒を連ねていた。その住宅を追い出してて建てたのがTBSのテレビ塔と社屋だった。
東京の空に三本のテレビ塔がたった。無駄使いの声に、東京タワー333メートルに一本化することになった。その頃スタートしたのが牛込のフジテレビと六本木のテレビ朝日だった。
基幹局のなかで、ただひとつテレビ朝日だけが、教育テレビの認可だったので、芸能娯楽にかわるためのあらゆる工夫をし、数年後に芸能娯楽局の認可をえた。
始まりは銀座の高速道路しただったが、まだ社屋建設地も決まっていなかった。当初メンバーは、電通や朝日、旺文社などに分散してあずけられた。いくつかの候補のなかから六本木が浮かび上がった。
現在の六本木ヒルズのセンタービルのあたり、先年ブームを呼んだ真田の江戸屋敷があった。真田の当主は自身を引き取ってくれることを条件に屋敷を売ってもいいというのだ。かくして技術監督真田幸長が誕生した。真田屋敷は消え、由緒ある真田邸はテレビの土台となって消えた。現在中継の折などに言っている毛利邸園はだいぶあとになってニッカの倉庫を買収したときについてきた土地である。
地上波のテレビはもはや落日を迎え、インターネットの時代を迎えているが、かって初めての地上波テレビで、手本のない映像に挑んできた仲間たちは、すっかり変わってしまった六本木の風情に自分自身の姿を重ねているようでもあった。
六本木でテレビを創った仲間たち
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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