記憶のなかの散歩

by

in

記憶のなかの散歩
 雑誌のかたすみに「記憶のなかの散歩」という言葉があった。
 誰でもが持っている記憶のなかに、どれほどの散歩があるのか、他人事ではなく自分事として辿ってみた。
 記憶が蘇って初恋の人があらわれた。丸顔で、眼が大きく、ポニーテール、笑うと右の頬にエクボができた。
背は高くなかったが、はちきれそうな胸を清楚なセーラー服に包んでいた。
 二人で歩いたのは善福寺池、どきどきしながらいつもよりゆっくり歩き、一周すると決まったように同じベンチに座った。
 そして西の空が赤く染まると、黙ってたちあがり次の約束をして別れた。
 武蔵野台地にはあちこちに池があった。石神井池、善福寺池、井の頭池、……鬱蒼とした森に囲まれていた井の頭池が、敗色濃厚となったある日、巨木がみな切り倒されポツンと残こされた池が、とても寂しかった。
 その日を境に井の頭池の散歩はしなくなった。
 幼い頃の散歩は、西片町の大銀杏のある坂道をへて東大に踏み入れた。銀杏並木から三四郎池を横目に池之端へでた。連れてってくれたのは、いつも髪結いのオセイさんだった。オセイさんは大きな風船と共に、誘いに来てくれた。池之端から浅草まで、日本髪に結ったオセイさんに連れられ観音様にお参りをするのが、嬉しかった。帰りには梅園であんみつを食べた。幼い少年にとっても、オセイさんにとっても仲見世は新天地だった。
 椿姫の墓を見下ろしていたパリの一年、ルピックの坂道からサクレクールの丘までが散歩コースだった。
太っちょの果物やの伯母さんやら、放蕩の限りをつくした伯父さんにロートレックの昔を重ねながら、ゆっくりと石畳を登った。テルトルの広場では似顔絵描きの前に座っている少女や、恋人たちを見ながら、異国の人々の来し方に想いを馳せた。
 記憶のなかの散歩は語りきれないほどあるが、どれもみな宝石のようなムカシだった。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ