江戸歌舞伎390年と謳い、猿若祭大歌舞伎と謳っている。
ならば初幕のまえには、柿、白、黒、三色の引幕にして欲しかった。
守田座方式の萌黄、柿、黒の定式幕では気分が盛り上がらない。
物語のある柿、白、黒の幕にしてこそ、390年前の安宅丸による歌舞伎の江戸乗り込みを彷彿とさせる。
櫓拍子を揃えるために船の舳先に立ち、金の采配をふって江戸の港にはいってきた初代中村勘三郎の心意気が見える船覆いの幕こそが、柿、白、黒の三色に象徴されているのだ。
猿若祭では勘太郎・長三郎の初披露もあったため、そちらの祝い幕を優先させたのだろうが、まずもって猿若座の気分こそ江戸っ子にとっては晴れがましく嬉しい。
猿若という道化の役どころは、阿国歌舞伎とともに、出雲、京都、江戸に伝わった狂言回しとして、歌舞伎百般にまつわる名前なので、役者の家の名のうえにきて当たり前である。
さて三代目中村勘太郎、二代目中村長三郎初舞台は恒例記者会見に始まった。
同時に発表されたのが、「二人桃太郎記念田んぼアート」と題された田植えと稲刈りイベント。まず五月に松本の田んぼで田植え、秋には稲刈り、18世勘三郎の鏡獅子と日本一の幟をもったふたりの桃太郎が稲田にうかぶ。ひとつのイベントで三度宣伝に絡むイベントだった。
次は桃太郎ゆかりの鬼ヶ島へ。鬼の洞窟のまえでの親子三人の見得写真。さらに岡山吉備津神社にまいり、鬼の首の埋まっている竈のうえの窯を炊き、鳴り響く音で吉凶を占う鳴窯神事、そして最後は浅草浅草寺における猿若祭お練り、と宣伝大車輪の興行だった。テレビ時代に呼応し、子供二人の一年間密着レポートと水も漏らさぬ中村屋ご家芸の宣伝戦だった。
かくて歌舞伎座客席にはマスクをし、キャリーバックを引き、芝居中も平気で弁当をひろける無法者があふれたのだった。 ……目出度し、目出度し。
猿若祭のふたり桃太郎
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プロフィール

星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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