京都の劇場に困った事態がおきている。
去年の秋から突然に劇場が使えなくなってしまった。消防法やら建築法の違反で、四条の南座と祇園甲部の歌舞練場が使えなくなってしまったのだ。恒例となっている南座の顔見世大歌舞伎も上演不能となった。
勧進元の松竹は、先斗町の歌舞練場で急場を凌いだが、いろいろと大変だったようだ。鴨川沿いの南座に招きがあがってこその師走の顔見世興行なのだが、あの狭い路地をはいった先斗町の小屋では、なにより気分がでない。四条大通りに面した華やかさがない。
舞台も狭く、奥と袖もないので舞台装置もかなり簡略にならざるをえない。楽屋も狭く、地方さんたちのいる場所もない。
甲部の歌舞練場も駄目というので、今年の都をどりは北大路のはての京都造型大学の学内ホールでやることになった。とんでもなく遠い。祇園のお茶屋さんに出入りするご贔屓はどうするのだろう。
造型大学の入口には、幅20メートルにもなる階段がある。老人が一人で登るにはきつい40段ほどの石段である。若い学生たちにはキャンバスへの希望の階段かもしれないが、ご贔屓すじの老人にとっては地獄である。
金毘羅さんのように客を乗せてあがってくれる駕籠掻きでもいてくれればいいのだが、あの階段を想像しただけで、今年の都をどりはパスなのだ。
それにホールもよく出来てはいるが、花街のなかの歌舞練場とは違い、華やかさに欠ける硬質な雰囲気なのだ。どこか建築全体に冷たさがあり、どう考えても花街の踊りには向かない。
お茶屋の女将さんもお客さんの接待が大変なことだ。タクシーの何台かを常駐させてピストン輸送しなければ客も納得しないだろう。花街の春は大学のホールでは演出できない。舞台があればそれでいいというものではない。町の空気を感じ、行き交う芸妓衆やら舞妓を横目に、華やかな花街の雰囲気につつまれてこその「都をどり」なのだ。
をどりを終えて祇園の座敷に息せき切って戻ってきた芸妓たちの、お詫びと言い訳の挨拶がいまから聴こえてくる。
洛外へ行ってしまった祇園の「都をどり」
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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