お気の毒なタモリとマツコ

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お気の毒なタモリとマツコ
  NHK紅白歌合戦について触れない訳にいかない。
 まずタモリさんとマツコに、お気の毒でした、と申し上げる。二人が会場に入れないという設定は、視聴者にとってすこしもインパクトがなく、そんな馬鹿なという思いだけが残ったナンセンスな設定でした。日頃お世話になっているNHKから依頼されると、貴方たちほどのタレントでも、受けざるを得ないという芸能界の掟がよく判る皮肉なシーンでした。
 シンゴジラと歌の力という戦いも空回りで、視聴者は引きました。構成作家たちは何をしていたのでしょう。
NHKのスタッフは、こうしたナンセンスな設定をこなす力は全くないという証明のようなシーンの連続、相場雅紀と有村架純の低ピッチな司会とともにいい勝負でした。
 せっかくの歌、唄のちからのある作品にやたら奇妙な踊りがつくという趣味にも当惑しました。
 唄のうまさが取りえの天童よしみのまわりに、子役のバレエがついて邪魔なだけ、と思っていたら香西かおりにも、田舎のストリップまがいの橋本まなみがまとわりついていた。郷ひろみには下手なモダンダンスではりついた土屋太鳳。五木ひろしはAKBのバックが嬉しいらしかったが、坂本冬美のバックのエキセントリックな踊りには閉口した。
 相変わらずキレのいい舞台で、聞かせ見せたのはPerfume、不倫の言い訳ソングの高橋真梨子、年齢とともにあじがでてきた。
 なんとも困ったのは大竹しのぶ、ミュージカルで唄っているからという理由でキャスティングしたと思われるが、声だけだして表情のなさには恐怖をおぼえた。あれではピアフが泣いている。
 面白かったのは、ピコ太郎と第九の重唱、シャレが光った大人の唄遊びだった。
 椎名林檎のマネキンチャレンジやら、レーザー光線、LEDムービング、そして映像と、パナマ文書のごとく使っていたのは、さすがお金持ちのNHKであった。
 紅白歌合戦はその年の歌と、芸能のレベルを知る絶好の機会である。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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