小栗 旬とその仲間たち

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小栗 旬とその仲間たち
 民間テレビが始まった頃、ドラマ創りはいくつかの言葉が必要だつた。
今どきのバイリンガルならぬ、日本語のなかの異なる表現をカバーしなければならなかった。中心に座る人々は映画界からやってきた。新派、歌舞伎からのキャストもいた。そして新劇畑からの俳優がいた。それぞれに通用する言葉が異なる。 それらの俳優をひとつにまとめ、作品づくりをするのだから、演出はその言葉を使い分けねばならなかった。
 ハリウツド風の外来語で説明すれば、映画俳優は素直に納得した。歌舞伎役者は伝統的な呼吸法で台詞の殷について説明すれば理解してくれた。新劇人にはスタニスラフスキー・システムをふりかざしての演出が有効だった。テレビは生まれてから日も浅く、商業化の波に呑み込まれて演技論どころではなかった。とりあえず周辺に転がっている演技論をモザイクし、映像論でコーティングすればよかったのだ。
 それでも厄介なのは新劇俳優たちだった。俳優座の演技研究所からはいくつかの劇団が生まれた。同人会、新人会、三期会、仲間 それぞれに違いがあり、表現法も微妙に違う。森繁久彌にはなんの説明もいらなかったが、新人会の若手には百万遍の言葉を費やさなければならなかった。つまり新劇出身は面倒くさい役者だったのだ。
 いま面倒臭がられているのは、織田裕二とそのグループ、人気を勘違いしてテレビのシステムを忘れていた。
さらにその後を追っているのが、小栗組といわれる小栗旬、生田斗真、山田孝之らといわれている。三茶、三宿、中目黒あたりのバーや居酒屋で夜な夜な演技論をたたかわし、作品にも口を挟むというので、スタッフから煙たがられている。 議論好き大いに結構、血の気の多いのも結構だが、スタッフから面倒くさがられると仕事場がどんどん少さくなる。
 気がつくと「あの人は今?」の状態になるので、折角の素材がもつたいない。心して徒党は組まれるが良い。


コメント

1件のフィードバック

  1. つい先日関係者さんから「星野源」さんの話を聞いていたので…
    ファンの見たいものが見られる世の中は程遠そうですね。

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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