マッサンの思いが生きている余市の蒸留所

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マッサンの思いが生きている余市の蒸留所
 マッサンとリタの物語をNHKが放映していた先年、小樽から余市への一本道は一日中混んでいてどうにもなりません、ということで、余市のニッカ蒸留所行は断念した。
 があれから3年、もうそろそろ落ち着いた頃と、余市へ行ってみようということになった。
 北の荒海と山にはさまれた40年前の余市の印象とはまったく変わっていた。多分にこちらの眼が変わったのだとおもうが、余市は僻地とも思えず小樽のとなりの町だった。かって海沿いの道をたどっていくと、忽然と姿を表したスコットランド風なニッカ蒸留所に感激し、ここは外国かと舞い上がって、カメラを回した昔はなんだったんだろう。
 でもニツカ蒸留所のゆったりとした空間は、竹鶴政孝がかの地で学んだ理想郷にちがいない。工場と貯蔵庫群に挟まれた、マッサンとリタの暮らした簡素な洋館には、ウィスキーづくりのなかにあった僅かばかりの暮らしが読み取れた。遠い国から嫁いできたリタに少しでも、仕事は家庭に持ち込まないで、という意識があったらここでの生活は成り立たなかっただろうし、日本の誇る余市生まれのシングルモルトは生まれなかったに違いない。
 蒸留器のまえで、金髪ビックリメダマの少女達が、Vサインで写メしていたが、この娘たちの網膜には何が映っていたのだろう。
 広い余市の蒸留所には、人が生きて、人が努力した、志がいっぱいに溢れていた。貯蔵庫の並ぶ小道を歩きながら、北海道大学のキャンパスに流れる空気と同じ爽やかさを感じた。クラーク博士は此処にもいた。
 美瑛の広大な花畑にしろ、北海道には自然と戦いながら築いてきたロマンあふれる人間の仕事がそこここにある。
 僅かばかりのスペースがあれば、ご当地ビールでもウイスキーでも、簡単に作ってしまう、こんにちただ今の
状況が現実かもしれないが、人間が考え努力してきた開拓期の素朴な志に触れると、合理性だけを追いかける
アメリカンな利益資本主義には絶望する。
 ロウソク岩の夕景はあきらめ、小樽に戻り運河を眺めながら名物のちらしを食べて帰途についた。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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