5月のパリ行は旧年11月に決まった。そこで先ずチェックしたのは、ホテルのこと。オナジミや、心当たりを数件あたった。どういうことか、上旬と下旬は部屋はとれるのだが、中旬が全くとれない。大きな国際会議でもあるのだろうか。途中で荷物を持ってウロウロするのはいやなので、それではと初めてのアパルトマン暮らしをしようといことになった。
パリの不動産屋に連絡したところ、オウム返しにいくつかの物件が送られてきた。
条件をつけた。 ①部屋は2ベットルーム+それぞれのバス+化粧室+サロン+ダイニング ②エレベーター付き ③洗濯乾燥機 ④冷蔵庫 ⑤テレビ ⑥電子レンジ ⑦給湯器は無制限に使えること… ⑧場所は1区オペラからルーブル界隈 ⑨メトロの駅近く、タクシー・ステーションにも近いこと
この条件で探してもらったところ、それらしき物件の図面が送られてきた。がもうクリスマスで、オーナーがいなくなるので年が明けてからの交渉になる、ということで正月あけまで、フリーズしてしまった。
予算のこと ①申込金 ②家賃 ③保険料 ④保証金 ⑤清掃費 ホテルなら一泊いくら×滞在日数ですむのだが、一ヶ月ちょっとのアパルトマンに随分と手間とお金がかかった。最後までもめたのは、保証預り金だった。送金をして後で差額を送り返してくれるというのだが、フランス人のペースでは忘れたころに見当違いのところに送られてきたりする。退去するときに現金で清算してほしいと、いった処、なかなか結論がでず、いらいらした。
やっとのことでアパートも決まり、当日を迎えた。
まず路に面した大きい扉を開けるのに、暗証番号を入力しなければならない。ビルにはいり、ロビーからエレベーター・ホールに入るのに再び第二の暗証番号を入力する。エレベーターで5階に上がる。右側のどん付きに赤い扉がある。そこで鍵をだして、ようやく我らがアパートについた。暗証番号の多いのはウンザリする。
サロンには、カンデンスキーの絵が何枚も飾られ、60インチのテレビとオルセンのアンプ、部屋の一隅にはバー・カウンター、大きな皮のソファがデンと鎮座ましましていた。片隅の螺旋階段を上ると豪奢なダブルベットと、映画プリティ・ウーマンに登場したと同じ丸いジェット・バス、泡だらけのバスタブから片足を出してウインクする、あれである。折角の装置だったが、同行した助手はまったくイロケがなく、プリティ・ウーマンはマボロシであった。その向こうには化粧台と洗面台もある。
サロンから三段降りて奥はダイニングだ。やたらに大きい冷蔵庫、電気コンロ、コンフェクション、食器棚、シンク、そして乾燥洗濯機が組み込まれている。中央には6人はたっぷりと掛けられる楕円テーブルが置かれ、片方の壁には200号はあろうかと思われる抽象画がかかっている。モダンな照明が暗い。
そしてその奥が筆者の部屋、片方は総カガミで四つの洋服タンスと、金庫の入った引き出しにわかれていた。反対側にはダブルベット、そしてバスルームと化粧室がついていて、全てをみおろしているのが、アンディ・ウォホールのマリリンモンロウだった。そしてさらに屋上ガーデンがある。
ふと足元をみたら、すべて大理石、木の生活に慣れた足に大理石を歩かせるのは、落ち着かないことこの上ない、不感症なパリ生活だった。
無駄だった大理石のアパルトマン
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プロフィール

星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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