有吉弘行から柴田美咲へ

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 売り出しの手法は全く同じだった。
 猿岩石(有吉弘行×森脇和成)には、香港からロンドンへヒッチハイクをしろと命令した。
 柴田美咲には石垣島のあばら家でビンボー生活をしながら毎月情報を送れと命じた。
 両方ともムタイな要求だが、テレビに放映されるという餌によって頑張った。芸能界がそれほどに憧れの世界とは思えないが、それでも若者の欲望はテレビに向かったのだ。なによりも苦行に耐えた有吉の今日を見れば、彼にとって「進め電波少年」という番組には足を向けられない。
 22歳の女優の卵にとって寝袋ひとつ抱えて、石垣の島にわたるのはさぞや過酷なことだったろう。廃屋に近い築80年のボロやから物語は始まった。無責任な茶の間の人々の眼には、都会の毒にどつぷりと浸かった少女に、島の原始生活が務まるとは誰も思わなかった。
 潜ったことのない海にもぐってタコを獲り、銛で魚を捉え、自分でさばいて食べる。ゴーヤの苗を植え緑の日除けを作って、涼をもとめる。抜けた天井にはベニアを買ってきて塞ぐ。
 テレビ番組のやらせとわかっていても、みな応援団となり、柴田美咲とともにビンボーの疑似体験をした。
1年3ヶ月の暮らしを経てようやく卒業となった彼女に、かっての女優志向の軽さは無くなっていた。
 畑の師匠のスミコおばあ、海の師匠のナツおばあ、貧しさのなかで幸せに生きてきた石垣のオバアたちに愛される23歳の女に変わっていた。島の人々とともにカチャーシーを踊る美咲は、純朴な女になっていた。
 いつか立派な女優になってこの島に帰ってきます、といった彼女の言葉に嘘はなかった。
 幸せ! ボンビーガール 日本テレビにはこうした美談を仕立てるヤラセの名人がいる。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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