コクーンの三人吉三

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 亡き勘三郎の自由闊達な、吉本喜劇のごとき観客への媚びが嫌いで、コクーン歌舞伎はご無沙汰だった。
 久しぶりに三人吉三に足を向けた。 劇場前の廊下では、整理がかりの若者が大声で二列に並べの、切符を見せろの、野音のイベントの如き状態で、劇場という祝祭空間にきた雰囲気は皆無。
 椅子席の最前列で大変に見やすい上席だった。目の前は桟敷席と称するせんべい座布団の並んだ土間席で、サンダル履きで砂浜帰りのような女子が、パンツ丸出しで立ったり座ったり、歌舞伎のつもりで来た中年夫婦は眼のやり場に困っていた。
 芝居はといえば、ご存じ三人吉三を、勘九郎、七之助、松也の三人が演じる、次の世代に対する期待が主役だ。 三人それぞれによく演っていた。しいていえば勘九郎のやや足りない大きさ、七之助のお嬢のこなしの粗さ、松也のイナセとでも言おうか。それぞれに役の読み込みもしっかりとしていて好感のもてる舞台だった。
 しかし演出の串田和美が新劇的な手法で時代背景を描こうとしている点が気になった。 歌舞伎における白浪物の闊達な劇作法は、リアリティを超えたところにある。それこそが歌舞伎の魅力なのだが、へんに写実に引っ張ろうとして、歌舞伎の魅力を失いかけている。
 いろいろとやったが、結局見せ場は最後の所作殺陣に頼らざるを得なかったということだ。自由劇場の連中では殺陣ができず人数を頼んだマスゲームになってしまっていた。
 大量の雪や本水を使った趣向も、ラスベガスからパリのナイトクラブまで、当たり前となり、ライブハウスと変わらないフィナーレで、歌舞伎の明日についていろいろと考えさせられた三人吉三だった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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