キムタク武蔵の間違い

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 ジャニーズに頼らず、ようやくここまできたテレビ朝日が、視聴率3冠を達成したとたん、大きな間違いを犯した。創立55年記念番組と鳴り物入りの花火あげて、キムタクの宮本武蔵を放映した。
 ジャニーズ頼りで駄目になったフジの例を見ながら、教訓にならなかったのは何故か。ジャーニーズの看板スターが出演すると云うことに、舞い上がったとしか考えられない。
 かなりの製作費をかけ、番宣の垂れ流しで作ってみたものの、あのザマでは言葉もない。強力な系列局大阪朝日放送の制作とはいえ、なんとも情けない宮本武蔵をつくったものだ。
 キムタクは新しい武蔵とかいって気負っていたが、武蔵という孤空な剣士の足元にも及ばなかった。つきつめた世界観をもつ武蔵の哲学は、キムタクの単細胞には理解できない。ノッペラした彼の二枚目ズラは、剣の厳しさも深さもない、大根役者にしか見えなかった。 厳流島の決闘にも生死を賭けた緊迫感はなく、スポーツマッチに出かけた浪人程度の軽さだけが目立っていた。
 沢村一樹を始め、西田敏行、香川照之、武田鉄矢などの脇役陣はみな浮いてしまい、噛み合わないこと甚だしい。旬の真木よう子すら魅力的に見えない不思議な武蔵だった。大騒ぎして鉄腕ダッシュにすら負けたとあっては、プロデューサー以下頭を丸めるしかないだろう。 


コメント

1件のフィードバック

  1. 私は途中で投げ出して、最後まで見ていないので語る資格はありませんが、ビックネームを集めた大作のかみ合わせの悪さがだけが印象に残りました。
    大企業にありがちな消化事業という形で、看板番組に加われなっかった、落ちこぼれさんに思い出を作ってあげた。
    出演する俳優さんにも、そんな雰囲気が伝わり、本当の消化事業になったようです。

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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