80年代への無責任な郷愁

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 いま、あちらこちらで80年代へのノスタルジーが語られている。
 男女雇用機会均等法の洗礼を受けた強気の女たちがオフィスの支配権を握りつつあった。うちの事務所もお茶汲みを女性にさせてはいけない令を出し、年末の大掃除をうっかり皆でと言った所、私は演出をしにきたので掃除をしにきたのではありません、と拒否され慌てたこともあった。
 女たちの自我の前に、企業へのロイヤリティは失われ、現場では黙って働く「派遣」という新しい女性たちに期待するようになった。職場が音をたてて崩壊していったのも、80年代だったような気がする。アッシー君やメッシー君はそうした女たちに仕え、湘南まで白いソアラを飛ばして嬉しそうだった。なかにはサーフボードを車にのせた、なんちゃってオカ・サーファーも出現した。70年代の神田川は、ヨットのある湘南に取って代わった。
 着ること食べることだけを主役にした「なんとなくクリスタル」という文学ならざる印刷物がブームを呼んだ。代官山の小さなレストランが、ある日突然、愛の聖地に変わったりもした。
 勝負下着なるへんな見せ下着が登場したのもあの頃、クリスマスには一流のホテルで夜を送るのが当たり前になり、男の甲斐性は、ホテルの予約能力で測られた。
 週末の代々木公園は、竹の子族やローラー族に占領され、皆大きなカセット・デッキを持ち込んで路上で踊り狂っていた。わざわざ黒く塗って黒人風だったり、アメリカンな花柄スカートでパンツを見せて踊っていたり、狂乱はディスコだけでなく、街角まで埋めつくした。
 テレビにはダブル浅野が君臨し、鈴木保奈美は「カンチ、セックスしよ!」とわめいていた。
 80年代は、大都市の毒が全国に回り、「東京がすべて正しい」という没落の始まりだったような気がする。
 よりトラディショナルな良きもの、地方が音を立てて崩れていった時代、それが80年代だった。
 
 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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