ふたつ悲しいことがあった。
ひとつはモンマルトル墓地の椿姫の墓が荒らされていたこと。
オペラの椿姫には実在のアルホォンシーヌ・プレイシスという高級娼婦がモデルになっていた。彼女は20歳にして早くもパリの社交界の華となり、貴族たち憧れのマドンナになった。彼女の乗る馬車がシャンゼリゼーの大通りを往くと、紳士たちの乗った馬が何頭もたてがみをなびかせて追ったと伝えられている。
若くして亡くなった彼女をこよなく愛した男爵は、彼の財産が続く限り、彼女の墓に椿の花を捧げてくれるよう墓守に遺言を残してこの世をさった。
彼女はニジンスキーやダリダも眠るモンマルトルの墓地の一遇で眠りについている。若くあどけない表情の彼女を偲んで焼き付けられた小さな陶板写真が柩に付けられていた。
その写真を何者かが盗んだのだ。犯人にとって椿姫の遺影は盗むに値するお宝かもしれないが、彼女を愛する人々は沢山いる。彼女の遺影の無くなったお墓はどこか寂しげにも見え、悲しかった。いつか誰かが陶板の遺影を復活してくれることを願ってモンマルトルの墓地に別れを告げた。
もうひとつの悲しかったこと。
パリ16区にはアールヌーボーの名建築がいくつか残っている。
なかでも17 rue jean de La Fontaineにあるカフェ・アントワーヌは、ギマール建築のストリート・ウォッチングに絶好のベース・ポイント。無論このカフェもギマールのサインがあるアールヌーボー建築の代表だった。いつもこのカフェで一休みしてアールヌーボーウォッチングに出かけていた。
久しぶりに訪れたが、街角にある赤い小さなカフェがない。よく見るとファサードの赤いテラスが、グレーに変っていた。グレーはアールデコの色で、アールヌーボーは赤でなくてはならない。
街角の情景を大事にするパリで、簡単に赤がなくなつてグレーになっては悲しい。カフェは営業しているので、オーナーでも変わったのだろうか。
6月のパリの悲しみ
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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