モンマルトルの下町に突然「赤い風車」があるのだから、キャバレーの屋外デザインと思われても仕方がない。半世紀前、筆者が初めてムーラン・ルージュの前に立った時も、歴史的デザインとはこういうものかと
半可通な理解をした。
ある時、夕方のルピックの市場を冷やかしながら登って行くと、目の前に突然現れたのが、「ラデの風車」だった。みどりの森から何気に顔を出している木製の風車だ。あっここにもあった位の気分で坂道を後にした。
ムーラン・ルージュでのショーが評判をとり、グレコが見に来たり、サン・ローランが観客としてくるに及び、ある日、RTFラジオ・テレビジョン・フランセーズからショーのセレクト版を放映したいのでという連絡がきた。ところが当時のRTFは、テレビ・スタディオがまだ不足していてセーヌ河畔の本社では録画できないので、モンマルトルの風車でやりたいというのだ。
早合点したスタッフは、先日出会った「ラデの風車」を目指したのだが、どこにもスタディオは見当たらない。はてと、周りを見まわすと東の森のなかにさらにもうひとつの風車が見えた。「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」この辺は道に突然階段があつたり、微妙に湾曲していたり、狐につままれたような気分で隣の風車をめざした。
いまではレストランにかわつてしまった風車のしたの家はスタディオになつていた。
予定の時間にいったところ、まだホリゾントに絵を描いている。フランス人の考える日本の風景が未完成なのだ。ホリゾントいっぱいにシヨーの背景を描き込むことなど、東京では全くなかったこと。照明ひとつで次々とバックの転換をしていた日本の常識とあまりのへだたりにビックリした。丁寧なのか、間抜けなのか、フランス人の根性みたりであった。
いまでもモンマルトルの丘には、「赤い風車」と「ラデの風車」と、「ギャレットの風車」、三つの風車が存在している。
この辺りいったい葡萄畑の100年前までは、モンマルトルに30余りの風車が回っていたと、教えられた。
30の風車が3つになつたモンマルトルの丘
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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