20年ぶり・松島トモ子のコンサート

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 「出席をとるわよ」というお手紙をいただき、20年ぶりの松島トモ子コンサートに出かけた。
 彼女とは仕事を重ねたという記憶は薄いが、自由が丘の石井獏バレエ団で幼少期の踊る姿が鮮明に脳裏に残っている。当時の彼女はカワイイの象徴のような存在で絵にかいたような少女だった。ところがその少女は一向に歳をとらない。いつまでたっても大人に変身せず、そのまま大人になり、ライオンに食われ、中年を超え、老々介護のすえの老境に達してしまった。
 仕事の記憶はないのに、どうしたことか環状7号線沿いの彼女の豪邸のことは覚えている。ともに海外公演に行ったこともある。とりわけ彼女のお母さんが素晴らしく、上品と知性をかねそなえた図抜けた存在だった。世にいうタレント・ママのイメージのまったくない素晴らしい存在だった。
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 徹子の部屋に出演した彼女は、ほとんど一人しゃべりで対話というより独話のごとく、往年の永六輔との番組を彷彿とさせていた。このことは彼女の責任ではなく、徹子の会話能力に問題ありとあとで判かった。
 コンサートはとても良かった。想像を超えていた。選曲もすっきりしていたし、「時代」「歌あるかぎり」から「ありがとう」への流れは、彼女の今の心境に反射して素直に感情移入できた。松川義昭のテナーは腰を痛めた老体へのトモ子ちゃんのいたわりが垣間見えて、ステージにほのぼのとした空気を作り出していた。
 衣裳はオープニングのイブニング、青い花、ラピスラズリーのブルーをいかしたドレスが素敵だった。最後の白いアンサンブルも今風なシルエットで、スケ感もあり、彼女の趣味の良さが生きていた。赤とゴールドのイブニングは少し時代を引き戻され困惑した。
 かって渋谷のジャンジャンで世話になった菊池廣くんがステージをコントロールし、受付にはマムシ・プロのスタッフがいて驚いた。このところ毒蝮三太夫こと石井伊吉君とはいろいろと交流があり、先日も横須賀美術館へ招待を受け、至福の時間を過ごした。
 なにはともあれ、コカンセツの大手術をまったく感じさせない松島トモ子のコンサートだった。
 


コメント

1件のフィードバック

  1. 星野先生、ご無沙汰しております。
    トモ子さんのコンサートを見ていただいたんですね。
    ありがとうございます。
    気が付かず、失礼しました。
    私は2011年よりこのコンサートをプロデュースしてます。
    東日本大震災、コロナと、公演が難しい時もありましたが、何とか続けてます。
    星野先生もお忙しいようですね。
    お体大切のご活躍を祈ってます。

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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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