銀座で9日間くらした。
写真展の仕込みから撤去まで、毎日銀座8丁目から5丁目の座STONEまで通ったのだ。
10時以降はデリバリーの車も止められないので、8時過ぎからすずらん通りも西五番街も急に忙しくなる。
レストランへの食材の搬入、高級ブティックへの洋服の運び入れ、クロネコ便やら福原運輸の車が行き交って
のんびりと運んでいるスタッフなどひとりもいない。みんな走っている。
ゆっくり働いているのは、いつもベルサーチのウインドウを拭いている黒いセーターのオネェサン位か。
十字路に立ちすくんで、スマホを操作している中国人とおぼしき旅行客、どうやら目指すお店の検索をかけて
探しているようだ。十字路の中心点に立って、東西南北を確認してスマホをかざしている景色が微笑ましい。
その旅行者をかもに頑張っているのは、6丁目にある旅行鞄専門店。大きいのから小さいのまでずらりと店頭に持ち出して、値引き大売出し中。シャッターの降りた銀座通りでここだけが、異常に盛り上がっている。
買いすぎて運搬手段のなくなった中国人が群がって買い求める。
朝の銀座でもう一か所混雑しているところがあった。マツモトキヨシだ。
電化製品の爆買いをお国から止められて、彼らの欲目は化粧品と薬に向かった。買い物籠にはクレンジングやら、口紅、頭痛薬、咳止め、サロンパス、腹痛の薬まで山ほどいれて大量買いである。
銀座四丁目のマツモトキヨシは、中国への輸出拠点と化していた。
たいていの店は11時オープンなので、繰り出した旅行者は、めざすお店の前に並んでいる。
勝者は圧倒的にユニクロのようである。
銀座6丁目に石川啄木の碑があることを知らなかった。
「京橋の滝川町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」
啄木は死ぬまでの3年間、朝日新聞の校閲係としてはたらいていた。銀座六丁目が京橋・滝川町であったこと、朝日新聞が銀座の真ん中にあったとは、一週間の銀座展でいろいろなことを学んだ。
10時前、朝の銀座
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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