鰻は江戸前である。

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 家康が江戸入府し城造りを始めた頃、同時に目の前の日比谷入江の埋立を始めた。
 その頃、大川の入口やお城前の浜に沢山いたのが、うなぎだったと言い伝えられている。
 この江戸入江のうなぎに眼を付け、どんぶり飯に蒲焼をのせ「うな丼」となずけ評判をとったのが、人形町元吉原の大久保今助。
 以来江戸っ子の好物として今日に至っている。
ウナギ.jpg
 本郷で育った子供のころは、天神下の「神田川」からうな丼が来たので、神田川に鰻がいるものと信じていたが、長じて「宮川」からうな重が来るようになって、宮川ってどこの川と妄想していた。
 後に吉田首相が病をえ大磯の自宅で鰻がたべたいと所望し、山王神社の杜にある「山の茶屋」からパトカー先導で大磯まで鰻の蒲焼をとどけたというニュースに接し、鰻にもブランドがあることを知った。
 時にどんぶりから重箱に格上げした元祖の店があるときけば、「重箱」のうなぎ懐石に感動したこともある。
 六本木では麻布の「野田岩」に通い、パリのフランス料理に飽きたときにも、サントノーレの「野田岩」に世話になった。
 江戸っ子にとって、寿司・天ぷら・蕎麦・うなぎ は生きていく上で必要不可欠な食である。
浮世絵.jpg
 「……江戸にては浅草川、深川辺の産を「江戸前」とよびて上品とし、他所より出すを「旅うなぎ」と称して下品とす。」と記され、今では寿司の肩書になっている江戸前のもとは鰻だったことが解る。
 蕎麦の二八にたいして「江戸前大蒲焼」の看板は錦絵に多々残されている。
 その大蒲焼にも絶滅の危機があった。五代将軍綱吉の生類憐みの令により、1687年に鰻の食用が禁止された。職人の記憶のあるうちに綱吉が死んだので、生類憐みの令が廃止され、うな丼の命がつながれたというエピソードである。
 今日は土用丑の日、江戸ベストコピーにのせられて、鰻を食することにしよう。
浮世絵ウナギ.jpg


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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