青山通りの青春

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 和製アメリカン・カジュアルのVAN、JUN、TACなどが、評判をとり若者たちを虜にしていたころ、極めつけとして青山通りに店を構えたのが、ニュヨーク発の Brooks Brothersだった。
 リンカーンが暗殺された時、着ていたコートはブルックス・ブラザースだったという歴史的事実とともに、日本の若者にアピールした。
 オンワードやレナウンに代表されていたメンズトラディショナルに楔をうち、青山通りを一気にファッション・ストリートに変えたのだ。
 紀伊国屋から東宮御所のあたり、ようやくビルが建ち始め、青山通りビル群に流行の風を誘い込んだ。 以来、青山通りはジュン・アシダ、三宅一生、コム・デ・ギャルソン等の日本勢と、マックスマーラ、プラダ、ロエベ等の舶来勢がしのぎを削るファッション街となった。
 バブルの終焉とともに流行の季節は急速に力を失い、ストリート・ファッションの機能性に世界の眼はうつっていった。
 ZARAやH&Mとともにユニクロが世界規模にのしあがり、かってのクチュール系やらハイ・ブランドはいずれも苦境に陥ちいった。
 高価なファッションはダサイとされ、コスパに優れたストリート系で充分という意識が育ってきたのだ。
 ワークマンやワークマン・プラスが新しい衣服の主役に上るなど、想像もつかない現実が町を支配するようになった。
 こうした現実の風をまともに受けたのが、中途半端な既成ブランドだつた。ブルックス・ブラザースも当り前のように不振にさらされ、アメリカン・トラディショナルの看板も神通力を失った。海外進出第一号として東京青山に進出したブルックス・ブラザースも、コロナ旋風とともに閉店することになった。
 石渡裕さんから思い出があるでしょうからと、ブルックス・ブラザースのミニタオルが贈られてきた。いかにものBB風の柄をみていたら青山通りの青春がよみがえってきた。 紀伊国屋のピタパン、石津一族のパジャマ・パーティ、鈴乃屋の自殺事件、草月ホールのSKD、帝王紫と貝紫、ワコール・ホールでの夜会服コンテスト、ルコントのアーモンド・クロワッサン、青山アイドルズの女ボス、アンディ・ウオーホールの初来日等々…。
 思い出の堤防破壊に襲われた。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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