3月11日東北大震災の報道でメディアは埋め尽くされている。
希望をもって新しい街づくりをしている人々、相変わらずの震災住宅で孤独と戦っている老人、黙々と被災地の堤防づくりに動いている黄色い重機、型どおりに被災地の表面だけを撫でていくテレビの画面……リアリティのない女子アナのレポート、無数の鎮魂の祈りのなか、武道館での天皇の言葉ほど国を想うふるさとを愛する心情に溢れた言葉はなかった。
この日被災地の情景にダブって、「ふるさと」を思い出す。
生まれ育ったのは本郷西片町、樋口一葉の小説にでてくる辺り、古いしもたやが連なって近所には大きな銀杏の木があった。西片町10番地というのは旧華族の敷地跡で、細分化され明治の匂いの色濃くのこっている学者と庶民の町だった。
小学校半ばには杉並のはずれ善福寺近くに越したので、幼い頃のふるさとの思い出はあまりない。それでもたまさかやってくるチンドンヤの旗が塀の向こうを上下しながらくうを舞うチラシとともに通り過ぎた光景や、晦日の夜の雪景色に遠く聞こえてくるチャルメラの響きは耳に残っている。嵐の収まった朝は、必ず東大の三四郎池までぎんなんを拾いにいった。火鉢ではじけるぎんなんに、生命のいとなみを感じながら、ぎんなんの実の美味さに囚われていた。
中学2年の春、東京大空襲に遭遇した。真紅に染まった東京の空と別れて疎開した先は仙台の南、高舘の山懐だった。仙台の中学まで通う汽車もしばしば運休となり、その度ごとに名取から長町、そして広瀬川まで歩いた。大震災の風景に出てくる閖上から仙台にかけての荒涼たる津波の跡こそ、中学2年の短いふるさとだった。間もなく敗戦を迎え、仙台の焼跡整理を終えて、再び武蔵野の東京へ戻った。
いま軽井沢に住んで30年になるが、ふるさとは何処にありや、の心境である。
震災の日にふるさとを想う
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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