「日本軍は勝った」「日本軍は勝った」第二次世界大戦末期、いつも聞かされていた官製のデマ、最後に聞かされたデマは、「広島に敵は新型爆弾を投下」これがかの原子爆弾だった。
この度の東日本大震災にさいしても、いろいろなデマが飛び加っている。
最大のものは「日本は某国より、地震兵器により攻撃された」というもの、津波も含めて第二次、第三次に備えよ。というSF映画を地でゆくデマ、ハリウッド映画の見すぎだろう。第二は「天皇皇后は京都御所に緊急避難」といういかにもありそうなデマ、原子炉のメルトダウンを受けて、「東電社員全員引き揚げ」さらに「東電社長自殺」さらに「東電、アメリカに救助要請」というのもあった。民主党政府では、アメリカ政府に通じず千石あたりで握りつぶしにあってしまうという疑念からの措置というふうに但し書きつきのデマだった。
江戸中期には「馬が突然、人の言葉をしゃべり出した」、明治維新には「電線に処女の生き血が塗られている」というのもあった。女子供の肝を盗む「赤マント」出没。マスクをした「口裂け女」は下校途中の小学生の前に現れ「私キレイ?」うなずくとマスクをはずして「これでも?」口から耳まで裂けた形相が現れるというデマもあった。
海老蔵が妊娠中の真央夫人をともなって京都祇園のお茶屋に逃げた、などというデマは可愛いほうだが、原発建屋で決死の活動をしているのは、第三国人で放射能規制のない国の人々が働いている、などというのはあまりにも説得力があって後味のわるいデマだ。現にフランス人は、政府命令でみんな故国に帰ってしまった。アルマーニのショップにいたレディも、ディオールにいたマドモアゼルもお国で緊急手配したエール・フランス機で一目散に帰国してしまったのだ。世界一の原発利用国フランス政府の正式の訓令とあれば、ひょつとして、日本政府の楽観的記者会見こそが、デマではないかと疑われる。
震災に付きまとうデマ。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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