その歳の干支のお飾りはきまって京都で買ってくる。東京にも下町へ行けばあるのだが、どこか細工が違い都作りには敵わない。ことしも四条で籠うさぎを求めてきた。籠にちんまりと収まったうさぎは毎日玄関先で魔除けをつとめている。
うさぎを愛し、うさぎのコレクターとして有名だったのが、かの泉鏡花だった。酉年生まれの鏡花は、向干支のうさぎを大事にするよう幼少時に教えられ、一生うさぎを愛した。手拭いもうさぎ、マフラーもうさぎ柄、うさぎ自慢で新聞に登場したこともあった。金沢市主催の泉鏡花文学賞の鏡にもうさぎがあしらわれている。
彼は26歳のとき、神楽坂の料亭で知り合った芸者桃太郎と恋仲になり、30歳で同棲した。師の尾崎紅葉は烈火の如くに怒り、「俺を棄てるか、女を棄てるか、さあ、どうだ」「婦系図」湯島天神の場の有名な一節となった。紅葉は女房のほかやはり神楽坂の芸者小ゑんを囲っていたので、弟子の鏡花が同じ境遇の芸者をかこうことを心よしとしなかったのだろう。
「日本橋」のお孝、「草迷宮」の菖蒲、「婦系図」のお蔦、「海神別荘」の美女、「外科室」の貴船伯爵夫人、すべて鏡花作品に登場するヒロインは、秘した花、秘めた恋を抱いている。異常な潔癖症だった鏡花は好物の豆腐の文字すらも嫌って「豆府」と書いたそうだが、一直線の思いはその小説や戯曲にも透徹されていた。桃太郎との生活はみちたりていたが、6年後に鏡花は築地待合の女中頭お富さんと恋に落ちた。お富さんはつんとすました女だつたが、鏡花は彼女の教養に欲情した。芸や礼儀作法に長じた美人はいくらでもいたが、お富の文学的教養に彼はいっぱつで参ったといわれている。これは後に小説「白鷺」となって朝日新聞誌上を飾った。
鏡花とうさぎ。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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