野際陽子さんが、帰らぬ人となった

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野際陽子さんが、帰らぬ人となった
 野際陽子さんが旅立たれた。野際さんの思い出は、学生時代に飛ぶ。
 成蹊学園と立教女学院は仲良しだった。その年、立教女学院の高校一年に、凄い美少女がいる、という情報がかけめぐった。立教に通っている妹の情報だから本当だというので、ミに行こうということになった。荻窪に住んでいる彼女は、中央線で吉祥寺に、そこで井の頭線に乗換えて学校へ行く。吉祥寺の駅に張り込めば彼女をミルことはできるが、成蹊の生徒がそんなことをする訳がない。礼儀正しく品行方正なのが成蹊の校風だった。
 そこで女学院のバザーへ行こう、ということになった。立教女学院名物の秋のバザーにいって彼女をミようと企んだ。一年生のワゴンのところに彼女はいたが、臆病な悪ガキどもは彼女に声を掛けることができず、隣の上級生のクッキーを買って帰ってきた。高一の野際陽子は、見知らぬ聖女マリア様に見えた。
 1965年の暮、人ずてに野際さんが話をききたい、という連絡があった。実はパリへ行くので、何処を見てきたらいいか、といういかにも野際さんらしい律儀な質問だった。
 オペラ座、コメディ・フランセーズ、いくつかのブールバール劇場、そしてシャンソニエ、ユシェット座の「授業」はぜひと推薦した。2年間の留学を終え、彼女はミニ・スカートをはいて颯爽とタラップを降りてきた。ファションに目覚めたのだ。
 1970年、日本で初めての一億円規模のファッション・ショーを演出することになった。東京は帝国劇場、大阪はフェスティバル・ホールが会場だった。ナレーターを野際さんに依頼した。ファッション・ショーの経験はないけど一生懸命やるわ、と快く引き受けてくれた。テーマはメタモル、台本を届けたところ、5日間質問責めにあった。毎朝電話がかかってきた。片仮名のファッション用語について、次々と質問された。
 真面目、正直、知に対する好奇心はずば抜けていた。野際さんのかもしだす品性と、知的なたたずまいが大好きだった。
 千葉真一さんと結婚、というニュースに接し理解できなかった。あの控えめで端正な野際さんが、何故、動物の臭いのする千葉真一さんに惚れたのか。のちに離婚の報に接し、ホッとしたことを覚えている。
 あの立教女学院のマドンナが、キイハンターでアクションし、冬彦さんを愛して、あの世に旅立ってしまった。                    合掌 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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