道具としてのマイ・カメラ

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道具としてのマイ・カメラ
 学生時代、カメラはWELLというどこが作ったかも判らないカメラをつかっていた。
 カメラ仲間のボスは、ライカをもっていた先輩である。ライカは憧れだったが、手が届かなかったので、ライカの持ち主はごく自然にボスの地位に就いた。集まるとみんなで先輩のライカに触って満足していた。
 コンタックスを使っていた友人は、女子校生と恋に落ち自殺してしまった。
 うんちくに五月蠅い仲間はパーレットという蛇腹式のカメラで単玉レンズの味を主張していた。二眼レンズのローライフレックスを持っていた友は、ポートレイトは二眼の6×6版フィルムに限るといつも自慢げに発言していた。女性を映したら4枚構成のテッサーレンズに優るものなしと豪語していた。
 女性とレンズの相性とはそんなに難しいものかと、感心もし疑問をもちながら、テッサーで撮った彼女の写真を見せられていた。
 現像も引伸ばしも全部自分でした。勉強部屋の押し入れを改造し、畳一畳の狭い空間を現像室と称し、バットを並べて一液、二液、三液、そして定着をこなし、赤いランプのもとでフィルムを乾燥していた。プリンターは忘れてしまったが、引伸ばしはハンザの引伸ばし機だった。温度管理もできない押し入れ現像室では、半分ちかく現像の失敗があった。引伸ばしもせいぜい四つ切ぐらいまでで、展覧会の出品作は先輩の広い現像室を借りた。
 初めてのパリには、キャノンで広角、標準、望遠のレンズを携えていった。ドイツのカメラに対してようやく日本のカメラが認められてきた頃だった。がキャノンのシャッターの調子が悪く、二、三回の修理ののち売ってしまった。キャノンは日本で買った値段の倍近くの高値でうれた。
 かわりにローライフレックスの露出計付きを手にいれた。二眼レフでみたベネチィア夕景の揺れるゴンドラが忘れられない。
 帰国後、ニコンを手にいれたが、お祭りに足しげく通い、フィルムの枚数の少なさにストレスを感じるようになった。一時はオリンパス・ハーフという倍の枚数がきれるカメラを重宝につかっていた。いつも冷蔵ケースに1ダースのフィルムを入れ絶えずフィルムの温度と数を頭に入れて撮影旅行していた。
 デジタルのいま、撮影はほんとうに楽になった。小さなメディアで1000カットも2000カットも撮れる。高齢になった今は、ミラーレスの軽さが圧倒的にシアワセである。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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