逗子海岸の別れ道

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 太陽が生まれたハーフマイル・ビーチ … 逗子海岸がゆれている。
 ヤクザによる海岸殺人事件で日本一厳しい条例が施行されたのだが、その結果海水浴客が15万人から6万人に減ったと騒いでいる。逗子海岸というのは、全長僅か850メートルしかなく、泳げるのはその内600メートルだけ。そこに無制限の音量で音楽が流され、お酒が売られ、タトーをした外人やその筋の人が闊歩し、BBQがやられたのではかなわない。
 徳富蘆花の不如帰や、石原慎太郎の太陽の季節に描かれた逗子の砂浜は何処かへ行ってしまった。
 江の島の喧噪に較べ、静かに語らえる渚として逗子はあった。御用邸に近い葉山一色海岸など岩陰を見つけて、夏の恋を語らえる絶好の浜だった。
 何時の頃からか海の家が乱立して原宿状態にかわった。逗子の浜辺からすぐそこに見える葉山のラ・マレド・チャヤに行くのに一時間もかかるようになってしまった。渚のドライブが渋滞の街中道に変わったのだ。
 海の家はレーベルや芸能プロがプロデュースするクラブと化し、そこにテレビやラジオが入り込んで、本来のビーチの脇役が観光資源化し、其処に沢山の若者が集まるようになった。
 逗子は今岐路にたたされている。客が減ったというソロバンに竿差すか、ほんらいのビーチパラソルを貸し出す伝統的な海の家に戻るか、素敵な籐のビーチチェアなどを開発して新しい湘南の顔になるか。
 逗子という町の行政のもつイメージと手腕に注目したい。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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