文筆を生業とする50年来の友人がいる。
普段はほとんど交流はないのだが、なにかの折に軽井沢に現れる。かって彼は、合歓の郷であまたの歌い手を輩出したヤマハ・ポプコンの制作にたずさわったり、有名女優Aと同棲したり、著作に励んだり、仕事もしたが、色恋も十二分にしていた。
彼の住まいはいつも逗子から葉山あたり、海が好き、ヨットが好き、加山雄三の文化版のような日々を送っていた。そんなふうに思っていたのだが、ある時彼が「川端康成」について熱く語った。
…騙されないで人を愛そう愛されようなんて…ずいぶん虫のいいことだ。
…人間は、みんなに愛されているうちに消えるのが一番だ。
川端の名言はいつか川端康成に内在する少女趣味に話題を変え、伊豆の踊子に始まり、抒情歌、むすめごころ、乙女の港、夕映少女、燕の童女、眠れる美女と行きついて、ノーベル賞も案外ロリコンだったんだと笑いあったりもした。
いまでも謎とされている川端自殺の真実についてもあれこれと想いを巡らし、逗子マリーナ417号室での自死の選択も実は若いお手伝いさんへの殉愛ではなかったかと、一致した。。
ヨットハーバー越しに見える江の島、材木座の浜、けぶって淡く浮かぶ三浦半島、川端康成の見た逗子マリーナの窓から、同じ風景を見続けていた彼が、去年の暮、突然に喧騒の六本木にもどってきた。
川端が好んで書いた座右銘に「仏界易入、魔界難入」とあるが、彼はきっとネオン輝く魔界への想い断ちがたく、ふたたび六本木に居を移したのだろうと、勝手に想像している。
逗子マリーナ417号室
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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