ジャニーさんがなくなった。
テレビはジャニーズ事務所の広報宣伝部となって、死に至る経過を事細かに報うじている。ジャニーさんとの知遇は、ナベプロの渡辺美佐さんだった。ロスから帰ってきた姉弟なの、今度事務所を作るから、よろしくね。五反田のワタナベ邸にはたまに招集されて伺った。麻雀卓をかこんで、渡辺美佐さん、淡路恵子さん、そしてメリーさん、ひとり足りなかったので貴方を呼んだの。今夜は帰さないわよ。ひどく下手な麻雀だったので、お姉さん方のカモになり、明け方タクシー代をいただき、寂しい懐を抱いて帰宅したことが何度かあった。
姉のメリーさんとは度々会った。ジャニーズ事務所を支えていたのはメリーさんだった。
異常な少年愛をもつジャニーさんは表にでず、もっぱらタレントの発掘に歩いていた。あの頃、オーディション・システムを確立していたのは、ワタナベプロ位のもので、みなマネージャーの直感やツテをたどっての売り込みからタレントは誕生した。ジャニーさんが何処でどうして少年を探していたのか知らないが、郷ひろみをどこかの路上で遭遇発見したときのジャニーさんの異常な喜びには出会っている。
帝劇に於ける初めてのジャニーズ公演は星野演出事務所がてがけた。ミュージカル「生きていくのは僕たちだ」という作品だったが、人気のフォーリーブスが歌が歌えず、カンパケのテープを録音して、観客にわからないよう腕利きのミクサーに託して上演した。スケジュール調整から衣裳デザインまですべて現場に立ち会って奮闘していたのは、メリーさんだった。弟への姉の愛情だったのだろう。
このジャニーズ姉弟が作り上げた男性アイドルについては、日本のエンターテイメントを幼稚化したという点で賛成できない。一本立ちしなければならない30代40代の男が、僕アイドルですから、その意識は世界のどこへいっても通用しない。この国のショウ・ビジネスにとって大変不幸な出来事だった。
印税収入を狙った秋元康による女の子の集団プロデュースとともに、日本のエンターテイメントを駄目にしたジャニーさんのアイドル路線、さらに加えれば、宝塚という少女歌劇、この三つこそこの国に大人のエンターテイネントが育たなかった三大要因と断言できる。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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