東京の街を我が物顔に走っていたのは、ルノー4CV という小さなクルマだった。トラックを造っていた日野自動車がライセンス生産していた。タクシーはあらかたこのルノーだった。戦後ずつとアメリカ軍のジープかアメシャしかみてこなかった眼に、ルノーはどこか頼りなかったが、クルマになぜかヨーロッパの香りがした。
1958年、純国産のクルマが誕生した。第二次世界大戦で戦闘機を造っていた技術者たちが、結束してつくった知恵のかたまりだと評判が立った。その第一号車を買ったのは、ナショナルの松下幸之助だつた。クルマの名は「スバル360」、ワーゲンのカブト虫に対して、外観のそっくりなところからテントウ虫とよばれた。
良く走った。並木通りの角に止まっていると皆があつまつた。クルマの主はたった今大阪から
戻ったところだと、自慢げにいう。へえ、こんな小さなクルマが大阪まで走ったんだと、恐る恐るスバルを皆で撫でまわしたこともあった。ゼロ戦の成果だと噂が流れた。
日産は「オースチンA40」と言うクルマをライセンスで造っていた。男っぽかった。
あの頃お洒落なのは、トラックのいすずから出ていた「ヒルマン」だった。クルマにツートンというお洒落な彩色があるというのを教えてくれたのが、ヒルマンだった。女性に人気があり、なかでもアイドルの女性芸能人に愛されたクルマだつた。役者はほとんど地下鉄かバスか足でスタジオに来た。自家用車できたのは売れっ子の歌手か、映画のトップスターだけだった。
本番がおわっての帰り道、誘われてヒルマンの後部座席に座らせられると、なんとも落ち着かず色恋どころではなかった。
やがてスバル360は、「ケンとメリーのスカイライン」に化け、日野ルノーはコンテッサに発展した。
安倍公房はビフテキを食べながら、コンテッサを愛した。
天皇の皇太子時代御料車として始めて造ったのが、プリンスロイヤルだった。いまは亡き軽井沢飛行場は、若き平成天皇の運転練習場だった。
やがてこのスタッフからフェアレディZが生まれ、ジャパンポルシェと呼ばれて、ロデオ・ドライブのスターになった。
追いつき追い越せのクルマの時代
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国産スポーツカーには白洲次郎さんが貢献したとか見た記憶があります。
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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