軽井沢が騙されたマーラーの指揮者

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ベニスに死す.jpg
 ……疫病コレラによって死の都となったヴェニス、炎と消毒液にまみれたヴェニスの裏道をアッシェンバッハが彷徨う。
 彼は過ぎし時、ヴェニスの浜で出会った少年タッジォのまばゆいほどの美しさに、惹かれていた。少年の肉体をかりた美の極致に惚れた宿命の恋だった。 ……背景にはいつもマーラーの交響曲5番第4楽章アダージエットがなっている。
 ルキノ・ビスコンティによる映画「ヴェニスに死す」は僕の人生にとってもっとも衝撃をうけた映画だった。
 テレビからたまたまマーラーがきこえてきた。ハープと弦楽器群による4楽章のアダージエットからハープが抜け落ちている。画面にはときにハープがフラッシュして入ってくるから、音量を上げてみた、それでもハープは聴こえず弦楽群だけが聴こえてくる。音声スタッフのミスはあきらかだった。
 パーヴォ・ヤルヴィの指揮は繊細にして哲学的だったが、N響は重く3楽章のスケルツォにいたっては、棒についていくのがやっとのありさまだった。軽妙にカルカチュアされた粋な部分がN響にはなかった。
 マーラーと聞くともうひとりの指揮者を思い出す。イギリス人のダニエル・ハーディングだ。マーラー・チェンバー・オーケストラの指揮者を13年つとめた彼は、マーラーの名声とともに軽井沢に乗り込んできた。
 すっかり舞い上がった町は彼を大賀ホールの芸術監督に迎えた。さあ、世界一流のマーラーが聞けると期待したが、ついに彼はいちどもマーラーを聞かせてくれなかった。指揮したのはタンホイザーの序曲だつたり、ベートーベンの7番、あるいは新世界、軽井沢は完全に馬鹿にされ、なめられたのだ。 日本の田舎町にはこの程度の曲で充分と考えたのはたしかだった。
 町は恥をかかされ、捻出した何百万円かの契約金はドブに棄てた。騙された軽井沢がわるいのか、騙したハーディングが悪いのか。
 イギリス人の芸術家にはこんなひどい奴もいる、という見本だった。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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