弁慶橋の手前を右に曲がり、お堀にそって坂道を登る。左に眼をやると、そこは夏の楽園だった。四角いプールのまわりには、見たこともない華やかなパラソルが咲き、デッキチェアがおかれ、若い水着の男女が戯れていた。それはハリウッド映画の夏のひとこまのようにも見え、若者たちにとって憧れのライフスタイルだった。1960年代、赤坂プリンスホテル・プールのある風景。
戦後の貧しさからようやく立ち直りつつあった東京に、まだオープン・ビューのホテル・プールはなかった。神宮外苑のプールはあったが、ただ四角いだけの学校プールのようなもので、赤プリのプールがただひとつお洒落な恋のプールだつた。そこには女優のたまご、ファッション・モデル、六本木族、スポーツ・カーの男たち、若き遊び人たちがプールサイドを占領し、水飛沫に戯れていた。感じ会えれば、そのまま逗子の渚ホテルに車をとばした。
李王家の屋敷を改修した旧館のシックなたたずまいも忘れられない。チューダー様式の白壁と柱組は生きた博物館だったし、階段の手摺りやねじり柱のひとつひとつに時の重さを感じた。
歯医者の帰りに2階にあったフランス料理トリアノンに立ち寄り、今日は噛めないけどお腹は空いていると訴えたところ、シェフがオマカセをといって用意してくれたのが、初めてのターター・ステーキだった。いつもお出しできるメニューではありませんが、今日のお肉は最上ですといってだしてくれた。その日たまたま皇族の予約があり、取り寄せてあった最上の肉だった。以来ターター・ステーキは赤プリのトリアノンがお約束になつていた。
1982年、丹下健三デザインの超高層に生まれ変わったときも、当時の支配人大島栄壽さんのご苦労を横目に、40階のラウンジを恋の舞台に利用させてもらった。1955年から半世紀余り東京の移り変わりに立ち会ってきた赤プリにフィナーレがくるとは信じられない。赤プリのプールには僕等の青春があった。
赤プリのプールから始まった。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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