谷中銀座 延命院の女色・男色

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 11代将軍家斉公の頃、谷中延命院は大変な人気のお寺だった。
 初代尾上菊五郎の隠し子と噂された住職日道の類まれな二枚目ぶり、説教の旨さに至っては参詣の子女の心が一様に蕩けたと伝えられている。
 これに嵌まったのが大奥の女中たち、御中臈梅村を始め、多くの奥女中達が延命院通い、参詣のたびごとに日道住職の説法に酔い、性欲を充たしたといわれている。
 延命院の女色ぶりが瓦版にまで登場するに及び、江戸寺社奉行もついに取締りにのりだしたが、幕府中枢の大奥御中臈にはさすが手をだすことが出来ず、関係女中59人までたどりつくも、罰せられたのは尾張家、一橋家の女中数人のみ、日道住職は市中引き回しの上、死罪にという結末に終わった。江島生島事件とともにこの延命院事件は徳川大奥の二大スキャンダルといわれている。
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 時は飛んで今、谷中延命院は存亡の危機を迎えている。20年前谷中銀座の江戸街並み再現計画が持ち上がった。当然のごとく延命院の土地も計画内にはいり、西側半分の地上げをしなければならなくなった。お寺が直接地上げをするわけにもいかず、日本造営なる会社がやることになった。その後いろいろの経緯はあったが、結局日本造営は一銭の金をはらうことなく、延命院1100坪の土地を手にしている。
 その原因が下宮高純住職の男色にあったというのだ。日本造営の横田社長によると、住職の性的興味を満足させるため、タイの若い男を3人世話をした。住職は買春のためのタイの若者と交換に延命院の土地を失った、という事件なのだ。
 時を超えて、昔は女色、今は男色、おりしもLGBTの多様化に応じたような事件である。あとを継いだ息子の弘聖住職は「取材には応じません」。 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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