詰将棋とAIの藤井聡太四段

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詰将棋とAIの藤井聡太四段
 「藤井聡太・中学生・プロ棋士四段」この名前が毎日のようにメディアに踊っている。
14歳の天才にプロの棋士がまったく歯がたたないという現実は、劇画をみているような気分である。
 プロたちの賛辞や言い訳を聞いてみた。
 序盤、中盤、終盤を通して、とにかく悪手がひとつもありませんでした。(北浜健介八段)
 終盤にさしかかるまでは、6対4で優勢かなと思っていたんですが……(小林裕士七段)
 派手さはなく遠回りですが、確実な手を指す中でこちらを射程にいれる。(所司和晴七段)
 あれだけの報道陣に囲まれて、まったく動じないんです。私は自滅、ポカをしてしまった。(平藤真吾七段)
 離席するのはトイレの時くらいで、一時は私が優勢だったのに逆転されてしまった。(大橋貴裕四段)
 終盤になるにつれて、どんどん盤ににじり寄ってきたのです。(宮本広志五段)
 あの年齢でとっても礼儀正しいことです。(加藤一二三九段)
 茫然というか、頭が真っ白になった感じ(阪口悟五段)
 本当に私の完敗、実力差を感じました。(都成竜馬四段)
 よく見ると結構形勢が顔にでるのです。ヒザを叩いたり、ボソッと小さな声で”しまった!”と口にだしたり、                                          (瀬川晶司五段)
 粗さや隙みたいなものが感じられない、欠点がない、時代の流れを感じましたね(有森浩三七段)
 此処から感じられるのは、老練だが幼さも感じさせる藤井四段の素顔だ。彼がこれほど強いのは、詰将棋とコンピューター・ソフトだと言われる。
 一億総ゲーム時代に、将棋というアナログなゲームにこれほど人気が集まるのは、まだまだ大和の国も棄てたものではないという証拠かもしれない。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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