「ねぇ、時間あったら出てこない」ふたつ返事ででかけたのは、五反田の渡辺美佐(当時渡辺プロダクション副社長)さんのお宅だった。
戦後の音楽業界にアメリカ直輸入のマネージメント・システムを導入し、先頭を走っていたのが、渡辺プロだった。その美佐さんからのお誘いであれば、音楽番組の演出をしていた小生にとってお断りする理由はない。
その席で紹介されたのが、藤島メリーさんだった。同席していたのは女優の淡路恵子さん。四人でやるゲームに一人足りなかったため呼び出されたのだった。「彼女ロスから帰ってきたんだけど、音楽事務所をやりたいって言うのよ。」卓を囲みながらメリーさんは語るでもなく、ニコリとしてた。
数か月後、「うちにフォーリーブスっていうグループがいるんだけど、ミュージカルを創りたいんで相談に乗って」メリーさんから電話がかかってきた。その頃のジャニーズ事務所は、ジャニーさんはもっぱらタレント発掘、企画とマネージメントはメリーさんという体制だった。
都倉真一、服部克久、宇野誠一郎という3人の売れっ子作曲家とともに、フォーリブス・ライブ・ミュージカル「生きていくのは僕たちだ!」WE WILL LIVE ! の制作が決定した。
音楽稽古も終わり、立ち稽古も終わり、いよいよという時にメリーさんがとんでもないことを言い出した。「フォーリーブスの歌が駄目だから全部クチパクにしてくれ」というのだ。あらかじめ音楽はすべて録音して、舞台上ではさも歌っているかのごとく見せて欲しい、というのだ。
帝国劇場の舞台で、それはないと主張したが、メリーさんは言い出したらきかない。
なんとかジャニーズ初めての帝国劇場公演は無事におわったが、LPも完成し全国巡演をおわったあとも、観客を裏切ったような後味がついて廻った。お人好しで真っすぐなメリーさんだったが、あまりにもタレントに傾斜しすぎて、冷静さを失う。
渡辺美佐さんの知的なマネージメントに対し、メリーさんのマネージメントはどこまでも私的な情のマネージメントだったとも云える。ジャニーさんの美少年趣味を姉として支え、一生を送ったメリーさんに悔いはなかっただろう。 合掌
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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