大劇場についたら、いきなり眼にはいったのは冨美代さんの大女将、祇園甲部の総務である太田紀美さんだ。次々と劇場につくお客さんにご挨拶である。ロビーには、椿の柄の黑留袖に井菱の金の帯を締めたお姐さん方がならんでお迎えをしている。若いひとは舞台にでるので、引いた人やら上がった人、町方のお名取さんが現役にかわっての接待がかりをつとめている。井上流のお揃いはこうしたひとの波のなかでも結構映える。
一力亭の女将さんがお客さんを案内している。廣島家のおかあさんは何かにとりつかれたように小走りに目の前を走った。木村咲さん、つる居さん、比路松さん、玖見さんそれぞれ日本一のベテラン女将総出演のお迎えである。チラシだまりに人垣ができているのは多麻の女将さん、「あちこち飛び回ってもあきまへん。ここにいたほうが、お客さんとあえますねん。はっはっはっ。」体重に比例して座りがいい。 ロビーのそこここに、虎屋さんが、月桂冠が、聖護院八ッ橋さんが応援のテーブルを出している。客席についたら目の前にたけ田の女将さんにあった。懐かしい、学生時代からの知り合いである。
21年ぶりの京舞東京公演。ここ何日かは祇園町はほぼカラッポになる。女将さんから芸妓、舞妓の半分以上がここ平河町の国立劇場にくる。当然の如くご贔屓筋もみな国立に集まる。研究家も数寄者も、関東の踊りのお家元衆もみな集まる。
祇園町につたわる京舞と称する踊りにおおくの関心がよせられる。花街の舞を超えた日本舞踊の歴史に興味のあるひとにとって、これほど興味深い舞の公演はない。今回も座敷舞としての地唄、上方唄、を中心に一中節、義太夫、そして祇園のみに伝わる手打が上演された。
能の伝統に人形浄瑠璃が加わり、御殿舞がさらに御所の許しをえて伝承された井上流ならではの舞ぶりが楽しみなのだ。
番組は舞妓の上方唄京の四季に始まった。葉子師の芦刈には人間国宝になった名生の笛が冴える。地唄通う神、一中節松羽衣、地唄梓と続く。ベテラン芸妓の舞ぶりはさすが、格調高いお茶屋の座敷で何年も鍛えられてきた年輪が舞いに滲み出る。
まめ鶴さんの梓、流れの身の憂さ辛さ、薄情を恨み、供えられた樒を打杖にして舞う様はまめ鶴さんならではの死霊の凄さ、孝鶴さんフク愛さんの通う神も地唄ならではの晴れやらぬ心を唄って田毎の月にたくした恋心を舞い上げた。
圧巻だったのは照豊、豆千鶴のお二人による松羽衣、もっとも能の羽衣に近い特徴のある作品だったが、漁夫照豊の抑制のきいた見事さ、天人豆千鶴の美しさが能にあって能にない独特の空気をつくりだしていた。 お家元八千代師と次代安壽子師の三つ面椀久は他流にはない作品でいわずもがな。
最後の手打ちが圧巻、江戸の頃、ご贔屓役者を先頭に芝居小屋に乗り込んだ町衆やら花街の意気込みが見えて見事、かっての藤十郎さんのごとく役者の大名題をひきつれて舞台入りを果たしたら、さぞや素人衆の喝采を呼んだことだろう。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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