…花を捧げたい。

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 テレビには果てしなく続く瓦礫の風景。昨日も今日も…多分明日もつづくことだろう。
 少女がひとり、膝を抱いて失われた町の向こうをじっと見つめている。初老のおじいさんが失われた我が家の痕跡を求めてなにかを探している。「仏壇のかけらでもねぇべぇかと思ってな。ばあさんは流されちまった。」
 この胸の詰まる光景に言葉を失うが、…66年前の7月10日、同じ仙台の光景が走馬灯のように巡ってきた。
 その歳の春、東京大空襲まで頑張った瓦礫の東京を離れ、仙台に疎開した。その仙台で同じ衝撃のシーンに遭遇したのだ。1週間ほど前、来襲した敵機は爆弾を落とさず大量のビラを撒いていった。「仙台よい町、森の町、7月10日は灰の町」米軍お得意のデマ宣伝と受け流していたが、お約束の7月10日、テニアン島から出撃したB29・120機によって、仙台は木端微塵に破壊され、焼き尽くされ、いま東北関東大震災にみるあの瓦礫の光景と全く同じ状況と化してしまった。
 東北軍管区司令部は中学2年生の子供にも、焼け跡の整備片ずけを命じ、焦土の下に埋もれていた遺体運びまでやった。焼け跡にたつあの死臭はいまでもはつきりと覚えている。
 平和でなにひとつ不自由のない今の生活を享受していた人々にはあまりにも過酷な状況だが、第二次世界大戦のあの仙台大空襲を目の当たりにした我々世代は、この次はもっといい、より素晴らしい「故郷の町・杜のみやこ」が建設されるだろうと、信じて疑たがわない。
 軽井沢に住むヴァイオリン奏者の杉原桐子さんも、仙台空港の近く名取の出身とか。ともに故郷の復興を願い、ささやかな花を捧げたい。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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