舞台美術家には恵まれてきた。
民話劇では河童天国で一世を風靡した清水崑さんの墨線に助けられた。あの頃の崑さんは、朝日新聞にデスクがあって日々の政治漫画を描いていた。夕刊の締切までは待機していないとボヤキながらも、墨線による装置図には河童のお色気と鄙びた味がありとても面白かった。おなじ朝日という土俵では、山藤章二さんにもテレビタイトルやショーの舞台装置でずいぶん手をわずらわせた。
寺山修司の涙のびんずめというミュージカルでは、横尾忠則さんのキッチュな装置とポスターをいだいた。あの時の原稿原画はひとつも残っていない。モッタイナカッタ。
中原淳一さんに舞台装置をお願いしたところ、衣装も一緒でなければ嫌というわけで、装置衣装ともに世話になった。が中原さんの衣装イメージの素材がなかなかに手に入いらず難渋した。
それでも所謂舞台装置家よりも画家、アーティストのほうが、我儘でユニークで面白ろかった。
妹尾河童さんは関西から上京してオペラの世界で活躍していた。石原慎太郎作品に重厚な構成舞台で答えてくれた。青山のアパートで、史上最強の鍋ピェンローを度々ご馳走になったのも懐かしい。同時期、関西からきた装置家が橋本潔さんだった。グラフィック・デザインから版画までと守備範囲の広い作風が魅力だった。後に岡田道哉さんらとともにテレビで世話になった。
幻想的なにほんの風景が欲しくなると、織田音也さんを訪ねた。織田さんの装置には詩情がみなぎっていた。古賀宏一さんも新派の下町を描きながら、慶応の先生をしていていつも打ち合わせは三田の教室だった。
宇野亜喜良さんにはピーター国際劇場のレビユーを飾ってもらった。クスリの匂いがすると言われたが妖しいセクシャルな魅力が舞台全体に漂い、中性的なピーターのキャラクターと相まって面白かった。
日本のオペラを作るようになって有賀二郎さんとの縁ができた。ずっと民俗芸能のお仲間だったのだが、
舞台でのお付き合いは薄かった。日本舞踊を含め有賀さんの造形にはいつも触発された。トラディショナルなイメージは圧倒的だつた。年の瀬になると洗足池の有賀邸での餅つきを思い出す。
舞台美術という贅沢に恵まれた
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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