美しい柳橋のヒロインを悼む

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 光本幸子…といっても通じないかもしれない。
 映画「男はつらいよ」第一作のマドンナといえば、アアそうという程度のリアクションは期待できる。
 柳橋という花街に生まれた彼女は、幼少のころから清元を習い日本舞踊をならって、12才の時に、新派の名優水谷八重子(先代)の弟子になった。爾来、新派や新国劇の舞台でヒロインを務めた。
 彼女の始めての結婚式を、縁あって演出した。お相手は、当時新橋、柳橋などで「光源氏」と呼びそやされていた紳士、並み居る芸者、花街の美形を薙ぎ倒して「光源氏」を手中にした彼女の魅力は並大抵のものではなかった。
 当時満天下の子女を湧かせた歌舞伎若手の三之助…新之助(先ごろ旅立った団十郎)、菊之助(いまの菊五郎)、辰之助…すべての若手人気役者がひとしく光本幸子に執心したことをみても、彼女の美貌と魅力が並大抵のものでなかったということが判る。その絶頂期の彼女が女優の座を棄てて結婚するというので、贅沢な弦楽オーケストラを編成して結婚式を祝った。
 結婚後28年経って彼女が現れた。「…もう一度舞台に立ちたい。もう一度テレビの仕事がしたい。」時代が違うから止めたほうがいい、とは言えなかった。覚悟が決まっていて、芸能界復帰の二文字が身体に刻みこまれていた。勿論、離婚の上だったし、幼い頃からの芸の虫が動き出していた。
 寅さんの恋人として、帝釈天のお嬢さんを演じた光本幸子は、30年たってもやっぱりお嬢さんだった。激変した芸能界の事情が飲み込めなかった。演技のスタイルそのものが変わってしまっていた。
 美しく、一本気で、すこしだみ声のマドンナの笑顔に冥福を捧げたい。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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