DENTSUラジオ部(当時DENTSUにはラジオ・テレビ局はおろかようやくラジオ部ができた)から電話がかかってきた。
実はラジオ東京(現TBS)が開局する。その開局記念ドラマをDENTSUが作ることになった。1952年昭和27年春のことだつた。ドラマというのは、今人気の美空ひばりを中心にしたものだ。彼女は子供だし、まだそんなに経験もないから、演技指導に来てくれという事だった。
えっ!それは無いだろうと思ったが、とにかく来てくれ、といわれ、雪谷にあったエノケンさんのスタジオに参じた。当時TBSのスタジオは未完成で、電通スタジオは狭く、あの喜劇王だった榎本健一さんが自宅の庭に大きなスタジオをもっていた。
阿木翁助、小沢不二夫脚本、音楽米山正夫で、連続放送劇「リンゴ園の少女」は始まった。劇中の挿入歌として「リンゴ追分」が作られた。リンゴ追分は大ヒットしたのだが、その間奏にはいる台詞が問題だった。ドラマのなかの歌だつたために、歌だけではつまらない。台詞をしっかりと入れるべきというのであの長い台詞がはいったのだ。
…お岩木山のてっぺんを綿みてぇな白い雲がポッカリポッカリ流れていき、桃の花が咲き、桜が咲き、そっから早咲きのリンゴの花ッコが咲く頃が おら達の一番楽しい季節だなや、だどもじっぱり無情の雨こさ降って白い花びらを散らす頃、おらああの頃東京さで死んだお母っちゃんのことを 想い出すって、おらあ、おらあ、… (そして歌につながっていく)
ひばりはただ一回の読み合わせで立派に演じた。やはり天才というべき逸材だった。
「リンゴ園の少女」があって、その年の秋、昨夜の大火に見舞われた糸魚川の思い出につながる。
第一部はラジオドラマ「リンゴ園の少女」の実況スタジオ、そして第二部が「唄う美空ひばり」会場は糸魚川の大きな体育館だった。茣蓙の上にはぎっしりと好奇心の眼を開いた糸魚川の人々が座っていた。オン・ステージでキュー出しの演出を務めたが、冷や汗ものだった。
夜は糸魚川第一の名門料亭鶴来家の大広間での大宴会だった。あの料亭も昨夜の大火で灰燼に帰してしまったと伝えられている。
美空ひばりとの巡業の思い出も、ヒスイの町のあの料亭もみな炎が連れ去ってしまった。
糸魚川と、美空ひばりと、大火と
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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