祝・紳助引退

by

in

 ヴァブルがはじけ、テレビ局の貧乏につけこんで一気に登場したのが、吉本、松竹芸能を中心とした関西系お笑いタレントだった。台本も道具もいらず、金のかからないお笑い番組は、不況テレビの救い主だった。がこのテレビ不況は恒常的なものとなり、テレビ局の経営陣は思考停止状態に陥り、テレビ番組はますます安易化、ついにはバカつぷりだけを競うとんでもない番組が登場するに及んで、心ある人々はみなブラウン管の前から消えた。
 この「オバカブーム」を仕掛けた張本人が紳助にほかならない。上地雄介、つるの剛士、木下優樹菜など、そこから生まれたオバカグループが、今回の引退騒動で「パパ引退しちゃいや」と泣き喚いたと伝えられているが、バカにつける薬はない。芸能界は残念残念の大合唱、究極のオバカ民主党枝野官房長官まで、残念声明を発するにいたり、やつぱり菅内閣はバカ内閣の想いが一層つのった。
 紳助はすでに40億とも伝えられる蓄財をし、ビル、マンションなど7店舗を所有、スシヤ、焼肉や、バーなどを経営する商売人だから、テレビを引退してもいっこうに困らない。もう先のみえたテレビで、紳助プロデュース社長などと呼ばれて喜んでいるより、ゆっくりと心おきなく山口組極心連合会会長と夜な夜な遊んでいる方が、よほど幸せだろう。
 日本の戦後芸能史は、美空ひばりと神戸芸能社から始まったといわれているが、この神戸芸能こそ山口組直系の芸能プロタクションだった。美空のまわりにはいつも「アネサン、アネサン」と献身的につくすクリカラモンモンのお兄さんがとりまいていた。いまさら黒いツキアイがどうの、といわれても一向にに驚かないが、もしテレビに一縷の希望をつなぐとすれば、この引退は大変に喜ぶべきことだ。紳助の引退をテレビ・メディアの堕落面から論じる紙面が一つぐらいあるかとおもったが、残念の大合唱にはあきれた。


コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


カテゴリー


月別アーカイブ