石原裕次郎が亡くなって24年、彼の率いた石原プロも遂に解散か! 感慨無量の見出しが眼に飛び込んできた。
40年程前、日活のスターとして飛ぶ鳥を落とす勢いだった裕ちゃんが民放のテレビに初出演することになった。よそ事のようにそのニュースを見ていたが、まわり廻って演出を担当することになった。すでにその番組には「素敵な仲間」というタイトルが付けられていた。ドラマの演出をするということは、その脚本が問題なのだ。恐らくドラマの成否の60パーセントは脚本次第といえるだろう。
ライターに擬せられたのは、女流として注目を浴びていた向田邦子と、劇場台本で腕を振るっていた花登コバコだった。ドラマとして成功させるには主役を逆境に置かなければならない。その視点で演出と二人の作家は合意した。裕次郎を逆境に置くことによって、茶の間の共感を得ることができるし、彼の人間的魅力も引き出せる、さらに必要とする演技力にも厚みがでてくる。足の長い青春スターに名優の評判を確立しよう。
当時いまでもそうだが、石原プロというのは日活俳優課のスタッフだったり、裕次郎の信仰者で占められていた。彼らにとつて石原裕次郎は常にカッコよく、常に仲間の親分でなければならなかった。ドラマの本質から離れたスター集団だったのだ。この点でプロ側、作家陣、演出と何度議論しても石原プロの理解は得られなかった。
脚本家もある時点から、傑作はあきらめ彼らの満足を充たせばそれで良しとする、スターとその取り巻きによるストーリーに舵をきつた。後に石原プロが作ったドラマも、太陽にほえろ・西部警察といつたスペクタクルもので、名作と呼ばれるものはなかった。裕次郎の映画は客ははいったが、映画としての価値を云々する程の作品はなかった。石原裕次郎という得難い素材から名画は生まれなかったのだ。そこに裕次郎という役者の不幸があったと、今でも残念でならない。
石原裕次郎のふしあわせ。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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