それまでトンネルを抜けた雪国が「新潟」だった。
田中角栄が日本列島改造論をひっさげて政界に登場したことで、雪国はようやく首都に近ずいたのだった。
目白の田中邸には毎日陳情の人々が列をなした。下駄ばきで錦鯉を愛する闇将軍は、ひとつひとつの陳情を誠実にきき、「よしわかった」「それは出来る」「それは出来ない」と即座に答え、はるばる陳情に来た人々を安堵させた。ただ田中邸を訪れるときは、サントリーの角瓶の箱に万札をつめて持って行かねばならないと、噂がとんでいた。サントリーの箱には、丁度万札で1000万円入った。
愛人の住んでいた神楽坂は、午前中は下り、午后は上りの一方通行になったが、角さんの霞が関への通行にあわせたと伝えられた。
「私は田中角栄だ。小学校高等科卒業である。出来ることはやる。出来ないことはやらない。ただ、すべての責任は私が負う」 初めて大蔵大臣になってときの挨拶だが、並み居る東大卒のエリートたちが、よしこの大臣ならついていける、と感動した。官僚たちの名前、出身地、誕生日、家族構成、まで細かく頭に入っていて、転勤、栄転、誕生日には声をかけ、コンピューター付ブルトーザーとよばれた。
「金は一気に使え、ちまちま使うな」も口癖だった。「ウソはつくな。すぐばれる。」ともいっていたが、後にロッキード事件に巻き込まれ失脚した。
大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣は、いずれも自派閥の田中派を中軸に誕生させ、闇将軍といわれて恐れられた。日中国交正常化を実現し、関越道、上越新幹線を通し、経済格差の多きかった上越の人々に希望をもたらし、角さんの生まれた長岡の生家は観光コースとなり、今太閤と人気の的になった。
バブルと金権政治を生んだ田中角栄本が、いま売れている。頼りない今時の政治家にあきれて、強かった角さんへの憧れが復活したのかもしれない。
田中角栄100の言葉 / 田中角栄頂点をきわめた男の物語 / 田中角栄相手の心をつかむ「人たらし」金銭哲学 / 田中角栄戦後日本の悲しき自画像 / 天才
「人間はいつも始まりなんだ」清濁併せ呑んだ角さんの生きざまは今に訴えている。
田中角栄の生き方と幻影
コメント
1件のフィードバック
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神楽坂の田中さんに赤ワインの美味しさを教えていただきました。
田中角栄氏や白洲次郎氏のような薩摩治郎八氏のような人はこの頃は現れていないのでしょうか…
大きな人を見てみたいものです。
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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