猛吹雪のなかの白川郷

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猛吹雪のなかの白川郷
 猛吹雪の飛騨白川郷へ行ってきた。
 何年か前、友人の運転で訪ねたことがあったが、その時はまだ秘境の雰囲気を漂よわせていた。合掌作りの民家民宿に宿をとり、囲炉裏を囲んで古老の話をきき、山女魚の焼けた香ばしさに幸せいっぱいの旅だった。
 再度訪問して驚いたのは、世界遺産の看板と共に、すっかり観光地らしくなってしまっていたこと。
 雪に覆われた秘境の谷間には、中国人が溢れていた。中国の人々にとって、この白川郷がどんな歴史を生きてきたかは全く関係なく、日本の昔の貧しい村落風景位の興味なのかもしれない。自撮り棒とけたたましい声と不作法の限りの旅があった。
 お蔭であちこちが制限だらけ、秘境の村落が一望できる萩町城址の展望台は立ち入り禁止となり、マイカー観光も不可能となった。幸いにも潜りこんだオヒトリサマ・ツアーの食事処が、展望台の天守閣だったのでなんとかライトアップを望見できたのが、せめてもの収穫だった。がこの夜の白川郷の気象は、荒狂った吹雪としばれる寒さで、久しぶりのバツ・ゲーム、マツゲは凍り視界不良、カメラのレンズにも氷が張って撮影どころではなく、指先という指先のすべてが機能障害を起こす、という悲惨な有様に見舞われた。
 この豪雪地帯の人々のすべてが、室町末期には浄土真宗の門徒となり、助け合って生きてきた秘境の文化には頭が下がる。旧家の片隅に残された小さな阿弥陀如来に、救いを求めた過酷な自然と宿命がこめられている。  60度の急勾配の屋根裏での養蚕と、カイコの糞を捏ねて、密かに造った煙硝の陰にどれだけの苦労があったかと思うと慄然とする。信長に逆らった石山本願寺の秘密基地として、他言無用の厳しい掟のもと、何百年ものあいだ歴史から隠れて火薬づくりを営んできたここの人々の暮らしを考えた時、簡単に観光地と呼んでいいものかどうか、自らを問い質してしまうのだ。
 白川郷は風景遺産であるとともに、悲しい歴史遺産なのだ。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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