熊さんと円蔵を偲ぶ

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 新聞を開いた。
 同じページに二人の友人の悲報が載っていた。何とも言えない気分だ。
 ひとりは渋谷宇田川町の御隠居、熊倉一雄さんだ。熊倉さんとの初めては荻窪の北沢彪さんのお宅だった。当時二枚目の俳優北沢さんは、自宅で朗読教室みたいな集まりをもっていた。そこでの出会いから、ままお茶のついでの演劇論となった。
 パリ犯罪大通りから発生したブールバール演劇に興味があった私は、マルセル・アシャールの「愚かな女」や、アンドレ・ルッサンの「坊やに下剤を」「奥様にご用心」など、ウィットに充ちたお色気100パーセントのブールバール演劇に入れ込んでいたが、熊さんはアメリカ系の喜劇に興味をもっていてニールサイモンなどの応援団だった。後年テレビの時代となり、「ひょっこりひょうたん島」や「ゲゲゲの鬼太郎」で知られたが、舞台に対する情熱は失うことなくテアトルエコーにズット係わっていた。 温かい熊倉さんの笑顔が眼に浮かぶ。
 もうひとりは八代目橘家円蔵さんだ。まま付き合いがあったのは真打に昇進した月の家円鏡のころだった。 立川談志を名乗るまえの柳家小えん時代、円鏡は小えんになついていた。小えんはよく円鏡をいじっていたが、いくら虐められてもニコニコと受け流し、うまいのは志ん朝、達者は小えん、面白いのはこの円鏡、 と受け流していた。
 こいつの家は天井に月がでる、なにしろ天井から屋根まで穴が空いてんだ、という談志の発起で皆で夜中に押しかけ、家人は誰も起きてこないので勝手に上がり込み、戸棚や冷蔵庫のなかを浚って、宴会をして帰ってきたことがあつた。あんな出鱈目を共にした仲間も、あらかたあの世へ旅立ってしまった。 合掌


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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