渋谷大改造のあしたへ

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 代々木練兵場といっても通じないが、帝國陸軍が整列するなか、白馬の昭和天皇が閲兵する様を遥か遠くから拝んだのは、中学一年生の時だった。…いまNHKホールのある辺り。
 敗戦後、渋谷の駅近く「恋文横丁」という路地があると話題になった。本土に帰ってしまったアメリカ兵に、残された日本の愛人…主に兵隊専門の売春婦たち、のラブレターを代筆してくれる小さな店のあった路地に、誰言うと無く付けられた名前だった。
 東急文化会館のうえに五島プラネタリウムが出来若いカップルの聖地になった。渋谷に幻想の夜空が生まれた。晩秋のパリの空の下で、プレベールとジュネの詩劇を上演したこともあった。
 公園通りを再開発したいので、という理由で堤清二さんのシンクタンクに召集された。寺山修司らと一緒だったが、これが西武デパート、パルコ、そして渋谷公会堂へという形で具体化した。
 一番の思い出は、ジャンジャンでの仕事だった。中原美紗緒とのミニ・リサイタル、SKDのプチ・レビュウ、さらに池田満寿夫、山頭火、ジャン・コクトーといった作家たちの舞台化をした。あの小さく不自由な空間がなんとも贅沢な表現を可能にしてくれた。
 不思議大好きと、いまサンチャやシモキタにある若い創作の風は、あの頃渋谷に吹いていた。
 何時の頃からか、センター街をプータローが占領し、渋谷は商売の街となり、風俗の町の匂いが強くなった。ヒカリエが出来、東急東横線が地下にもぐって、とてつもないコンクリートの塊が20年計画で出来ようとしている。完成した姿は僕らの眼にふれることはないが、シアワセな街になってくれることを信じている。
 


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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