渋谷パルコ誕生の思い出

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渋谷パルコ誕生の思い出
 「渋谷パルコ43年の歴史に幕」という見出しに眼が止まった。43年前、パルコのオープニングに立ち合い、その記念セレモニーを演出したことを思い出した。
 開店にさかのぼること3年前、当時の堤清二社長から電話がかかり「実は公園通りに新しい業態のデパートを出すことになった。ついてはお知恵を拝借したい」渋谷の西武百貨店の社長室に数人のスタッフが集まった。当時話題になっていたシンクタンクというやつである。
 まず公園通りに人間を集めるにはどうしたらいいか、そこから議論は始まった。マルイもなく、無論パルコも存在しなかった当時の公園通りは、まだまだ寂れた通り、そこに文化と商売の拠点を作ろうという計画だつた。
 突き当りは代々木公園、その手前の渋谷公会堂、そしてパルコ、点で考えても駄目で公園通りを面として捉えた開発計画が必要だというところからミーティングは始まった。
 NHKホール、渋谷公会堂、東急ハンズ、マルイ、ロフト、パルコ1,2、西武百貨店と現在ある公園通りの陣容とは程遠いのが、当時の風景だった。
 そのためには、毎夜人の集まる劇場は絶対に必要だというところから、パルコ劇場という発想に繋がった。
となりの教会地下には、ジャンジャンという小劇場があった。ジャンジャンはアングラ文化の起点となり、淡谷のり子が歌い、永六輔がしゃべり、甲斐バンドが演奏をするという自由な地下空間だった。
 イン・ショップの集合体という業態が決定した頃、オープニングはどうしようか、ということになつた。
 テレビ、新聞に頼ったパブリシティだけでは、情報としての新鮮さがない。存在証明には、チンドンヤを動員しようということになった。その年の全日本チンドン・コンクール第一位の出馬を願った。
 オープニングの祝会は、ホテルを止めて、3軒下の立体駐車場を会場に多角的なセレモニーを創ることになった。全館を包むスモークのなかから人間の象徴が生まれ、うごめき、やがてカオスが一点に収斂したら、パルコの誕生と哲学を宣言するという構成、ピナ・バウシュ渋谷版だつた。
 久しぶりに状況劇場の唐十郎が現れ、オモシロカッタと声を掛けてくれたことを思い出す。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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