久しぶりの渋谷クルーズだった。
公園通りも、道玄坂も、宮益坂も、かっての風情はどこへやら、巨大なコンクリートの塊になっていた。
戦後、英語の読み書きができないパン助のために、アメリカに帰国した兵隊さんへ愛の手紙を代筆していた小さな恋文横丁は見る影もない。
堤清二さんに呼び出され、パルコ計画に加わったあの頃、公園通りを文化の町にしようと、ディベートを重ねた夢が今はむなしい。無理矢理名付けたスペイン坂に、小さなFMのスタジオが出来た頃から、渋谷は少しずつ人間味から遠ざかっていった。
教会のとなりの小劇場ジャンジャンで、SKDドラマ・グループの芝居をしたこともあった。宝塚のスター真帆志ぶきの連続コンサートも演出した。池田満壽夫の「お尻の美学」を上演したときには、客席の隅に寅さんの渥美清を発見しおどろいたこともあった。若者もスターも夢を見ながら渋谷を徘徊していた。 地下では東急と西武が本気になって渋谷戦争をくりひろげていた。
この町は、かって「豊多摩郡渋谷町」、東京に市制がひかれた時は渋谷は郊外、東京の外だったとは信じられない。
東京駅からタクシーを拾って目指す渋谷の会場を告げた。「お客さん、勘弁してください。渋谷はあたし達にもよく判らないんです。近くまでは行けますけど、その先は探してください」道のベテラン運転手も持て余しているようだ。A5とかC3とかいわれても、何処に書いてあるのかわからない。帰途案内係の女性に「タクシー乗場は」と尋ねたところ、しばしの間ののち「タクシーは地上ですから、8階おりて地上に出ればあると思います」、巨大なビルのどこにもTAXIの掲示はみつからない。ようやくたどり着いたタクシー乗場は工事中の巨大な壁の向こう側だった。
建築家は「迷子」を見たくてこのコンクリートの塊を弄んでいるのだろうか。
渋谷で迷子を楽しむ
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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