田園調布の西口といえば、放射線状に伸びたラウンドアバウトな西洋風街並みがひろがる唯一の郊外都市だった。
駅から三本目ぐらいにあったのが、今話題の渋沢栄一邸だった。広い邸内には母屋と離屋があり、度々訪れたのは離れやのほうだった。
離屋には「渋沢均」さんという息子さん…はてお孫さんだったかが住んでいた。
渋沢均さんはこの度一万円札の顔になった渋沢栄一さんにそっくりの風貌だった。なにひとつ苦労をしたことがないおっとりとした性格はお公家さんのようでもあったが、いつも温和な笑顔をたたえて親しまれていた。渋沢均さんは、「渋さん」と呼ばれて人気があった。
渋さんは、かの渋沢栄一の倅などとはひとこともいったことはなかったし、日本資本主義の生みの親の息子などとはひとことも口に出さなかった。
渋さんの趣味は脚本書きだった。当時人気のあった腹話術師小野栄一さんをモデルにした戯曲を上演したいので、演出をして欲しいという依頼があった。小野さんの軽妙な腹話術人形に託して、本音と建前の人間を描きたいという狙いだった。細かい筋立ては忘れてしまったが、資本主義の本家に生まれ育って、有り余る富を眼にした環境へのアイロニーに充ちていたような気がした。
お札の表紙になったことを、メディアは色々と囃している。令和の顔になった菅官房長官に対し、苦労のわりに報われない麻生財務大臣への安倍さんの心使いではないかとか、いちいちもっともだがクダラナイ報道が飛び交っている。渋沢栄一の生まれ故郷では、わしらの先祖の渋沢栄一さんがお札の顔になって嬉しいと、資本主義から見捨てられたような人々がテレビカメラの前ではしゃいでいる。
渋さんの脚本は、今はなき有楽町の東京ビデオ・ホールで上演した。「奇妙な人形の恋ものがたり」として生身の俳優と腹話術人形の競演が話題をよんだ。渋さんは創業まもない「ラジオ東京」いまのTBSでもくもくと番組作りをしていた。まわりのスタッフは誰もかの渋沢栄一の倅とは気がつかなかっただろう。
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プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
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