浅利慶太は同世代の演劇人だった。
彼が慶応演劇部にいた当時、予科の講師となった加藤道夫は、三島由紀夫や岸田國士らとともに「文学立体化運動の担い手」として世間から注目されていた。慶応の演劇大好き学生たちは、加藤道夫のアイコンのもとに集まっていた。浅利慶太もまたそのひとりだつた。
加藤道夫はジロウドウとアヌイの世界に入り込み、「加藤道夫の神話」とも言われる演劇観を残している。
「描写」を偏重してはならない。描写は実証的な客観的知性だけで出来るつまらないものだ。
「表現」せよ。表現には強烈な主観的知性が働かなければならない。
俳優が芸術家なら、詩人が内面に詩的世界をもっているように、役者もまた己の言葉と、ヴィジョンをもっていなければならない。
浅利はこの加藤道夫の神話に強烈な示唆をうけ、劇団結成当時はかなり忠実にジロウドウ、アヌイの芝居を実践していた。が加藤が木下順二などの民族演劇論にインスパイアーし、日本の創作劇に舵をきったあたりから、全く違う方向に走り始めた。
彼は「芝居で食べる」という商業演劇の魅力にはまってしまったのだ。
バラエティ誌上興行収入の上位にある作品に次々と手をだし、ミュージカル上演の先輩たる東宝をけちらし、商売一辺倒のミュージカルに手を染めた。電通と組み、仮設劇場をつぎつぎとつくり、ロングラン興行を打って利益をあげるというブロードウェイの下請けになった。その為、ミュージカルの後発国ながら確実に上演権を獲得するため、世界で一番高いローヤリティを払い、一時は四季って一体何者?あんなに高いローヤリティを払ってペイするか、とブロードウェイの裏話題になっていた。
浅利慶太はまったく脚本、オリジナリティに関心はなく、いかに上演して観客動員をはかるか、という興行師として一流になった。
浅利は国立劇場をミュージカル専門劇場にするべく、中曽根、石原慎太郎などに近かずき霞が関に日参していた時期もあったが、黛敏郎らの猛反対にあい失敗したこともあった。
数班のチームを作り、同時多発的な興行システムも結局、俳優の三分の一ちかくが中国人となるに及んで、内部からも劇団のアイデンティティーを疑う超えがあがり、ブーメランのごとく彼に批判が集中した。
彼を失った今、劇団四季のレパートリーはすべてディズニー・プロダクションの下請けとなっているが、この状態でいつまで興行をつづけるのか、残されたスタッフのエネルギーと知性にかかっている。
浅利慶太を検証する
コメント
プロフィール
星野 和彦
Kazuhiko Hoshino
1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表
作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞
コメントを残す