浅利慶太の功罪

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 浅利慶太が認知症に襲われ、退任のやむなきに至ったと、週刊誌やテレビのワイドショーを賑わしている。
同世代の芝居仲間として、60年の長きに渡り見守ってきたので残念の一言だ。
 大学時代、加藤道夫に触発されアヌイ、ジロウドウに傾斜していた彼は実に情熱的な演劇青年だったような
気がする。ただ彼の翻訳もの一辺倒にたいし、僕らは日本の風土に根差した創作ものを目指した。
 アヌイからディズニーに至る彼の外国崇拝の足跡をたどると、結局商業主義にまみれた興行師だった。
 電通と手を組み、日本中に八つの劇場を立ち上げ、つねに平行してミュージカルを上演してきたエネルギー
は並大抵のものでない。当然役者もたりない、そこで彼が眼をつけたのは中国、中国人なら人件費も安くハングリーな精神も残っている。そしていまや役者の三分の一は中国人になってしまった。ユニクロなど人件費のために拠点を中国に求めた商売人になった。ミュージカル商人になってしまった。
 宣材には浅利の名前だけで、中国人のキャストは無視という実態だつた。
 演劇への情熱は、いつか興行への情熱に変わってしまった。金と次々に変わる女への興味が彼を支えた。
 テレビのワイドショーなどで無知な司会者が、日本のミュージカルを始めた浅利慶太といっているが、嘘もいい加減にしてほしい、間違っている。ミュージカルを日本で本格的に上演したのは、旧帝国劇場の支配人であり、プロデューサーであった秦豊吉(ハタトヨキチ)が初めてであり、越路吹雪や森繁久弥を主役にモルガンお雪を初めとする国産ミュージカルを次々に創った。戦後日本のミュージカルの狼煙は帝国劇場でハタ・トヨキチによって始められたのだ。
 横目で見ていた浅利が、フランス演劇を捨て、転向した先がブロードウェイ・ミュージカルだった。上演権を獲得するため異常に多額のロイヤリティを払い、世界の笑いものになったのも浅利と四季の責任だ。アメリカ・ユダヤのミュージカル資本に、日本をバカにされ続けている元凶が彼なのだ。


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プロフィール

星野 和彦

Kazuhiko Hoshino

1931年 9月17日 東京に生れる。
1954年 成蹊大学政治経済学部・芸術社会学コース 卒業。
1955年 旧帝国劇場文芸部 所属。
1958年 テレビ朝日(旧NETテレビ)制作局演出部 入社。
1960年 フランス・パリ・ムーランルージュより演出として招聘される。1年間滞仏。
1961年 テレビ朝日復職。
1968年 テレビ朝日制作局チーフ・ディレクター、企画室ブロデューサー を最後に退社。
星野演出事務所 設立。代表取締役 就任。
1973年 クリスチャン・ディオール取締役 就任。
1975年 SKD松竹歌劇団 演出就任。
1977年 東京フィルム・コーポレーション 取締役。
1980年 リード・ファッション・ハウス 代表取締役 就任。
1990年 軽井沢に居を移し現在までフリーの 演出家、プロデューサーとして、また執筆活動に従事する。
現在
日本映像学会 民族芸術学会 所属
テレビ朝日 社友
星野演出事務所代表

作品受賞歴
1953年 芥川竜之介作「仙人」第二回世界国際演劇月 文部大臣賞
1967年 連作みちのくがたり「津軽山唄やまがなし」芸術祭奨励賞
1970年 連作みちのくがたり「鹿吠えは谷にこだまする」芸術祭優秀賞
1971年 ミュージカル「白い川」芸術祭文部大臣賞
1992年 NDK日本ファッション文化賞


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